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西の空が茜色に染まる頃には、釣り上げた鮎は五匹になっておりました。
泥を噛んだ鮎は、そのまま食すには触感が悪いものですから、川辺で下処理をしてしまいます。エラの隙間から棒を差し込み、内臓にひっかけて差し引けば容易にはらわたを引きずり出すことができるのです。
清流で血のりを洗い流して締めると、竹魚籠に仕舞いました。
「お前は僕の知らないことをたくさん知っているのだな」
ぽつりと呟かれた言葉に顔をあげますと、直之様は、指先で赤い実を転がしながら薄く笑っておりました。
「若旦那様の方が私などより、よほど多くのことをご存知でしょう」
「そんなことはない。僕が知っていることなど、役に立たないものばかりだ」
お屋敷に戻ってくると、玄関の階段で踞っている人影がありました。驚いて駆け寄ると、寝着姿の女は、私の胸に縋りついてきたのです。奥様の肢体は、ほっそりとしておりましたが、どこか柔らかく甘やかな香りがいたします。
「どうされましたか。女中は何処に」
「私のことをばかにするものだから追い出してやったの」
「まさか、ここから歩いて帰らせたのですか」
細い肩をびくりと震わせて、奥様は怨めしそうな眼差しで私を見上げました。乱れた髪に充血した瞳。唇はひび割れて、首筋には赤い斑点が広がっておりました。
「あの娘を庇うのね」
「いいえ、そんなつもりでは」
「あの娘の方が若いから、庇うんだわ」
「そうではありません」
奥様は私の腕にギリギリと爪を立てました。
近頃の奥様は、感情の起伏が激しく、些細なことで癇癪を起こしてしまいます。
新しく雇い入れた女中は、生真面目な田舎娘でございましたから、奥様を軽んじるような大それた真似などできようはずもありません。限られた賃金でこのような辺鄙な山奥に通える女中を探すのも難儀で、ようやく見つけた人手でございましたが、奥様に追い出されてしまっては、また新たに探さねばならないのです。
「弘、疲れたから寝室に」
振り返れば、直之様は、脱いだ麦わら帽子を胸元でおさえて溜め息を吐かれておりました。
「直之、どうしてそんなに冷たくするの」
「ご自分の胸に手を当てて考えてみてはどうですか」
「直之まで私をばかにするなんて」
「そのようにキーキーと騒ぎ立てて、恥ずかしくはないのですか」
「あんまりだわ」
甲高い声が響き渡りました。直之様の眉間の皺がいっそう深くなってしまいます。直之様は、奥様を避けられているようで、食事なども別々に採られておりました。このように鉢合わせをしたのも、十日ぶりでございましょう。
「奥様、後ほど、紅茶をお持ちいたしますから」
奥様の肩を擦って、やんわりと身体を離しますと、細い指が私の着物の袖を掴みました。
「弘、お前は私の味方よね」
このお屋敷にいるのはたった三人きり。敵も味方もありません。私はどうしてよいかわからずに、曖昧に微笑むしかなかったのでございます。
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