坊っちゃん

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 朝倉邸での奉公は、馬の世話や屋敷中の掃除、炊事や洗濯など多岐に渡りました。仕事を教えてくださる女中頭の婆さんは大変に厳しい人で、些細な粗相を見つけては叱りつけられます。  坊っちゃんはというと、週に三度は、女先生がお屋敷に来られ、個人授業を受けておられました。通常は六歳になりますと、尋常小学校に進学されるものらしいのですが、坊っちゃんはお身体が弱く、すぐに熱を出してしまうため、特別に家庭学習を許可されておりました。  私は奉公、坊っちゃんはお勉強と忙しく、奥様がおっしゃるほど、坊っちゃんとの過ごす時間は多くはありません。それでも、坊っちゃんの気が向けば、朝倉家の者が昼食を召し上がられた後の僅かな時間に、遊び相手をいたしました。 「お兄さん、今日はお天気も悪いですから、僕の部屋で遊びましょう」  私が玄関先に飾られている置物を拭いておりますと、坊っちゃんが、にこやかに話しかけてきました。正直なところ、私は坊っちゃんと過ごす時間があまり好きではありません。 「まだ、拭き掃除が終わっておりませんから」 「少し休憩しても構いませんよ」  私が難色を示すと、坊っちゃんの隣で奥様が、優しく口添えされました。奥様からそのように言われてしまいますと、私には成す術がありません。 「おんま遊びをしましょう」  うふふと可愛らしく微笑む坊っちゃんに、厭な予感がいたしました。坊っちゃんがこのような幼稚な遊びを言い出すときは、大抵、ろくなものではありません。それでも、私には「わかりました」という他ありませんでした。  着物の裾をたくしあげて帯で止め、そのまま四つん這いになりますと、坊っちゃんは無遠慮に私の背に跨がりました。いくら私の身体が大きいとはいえ、二歳しか年の違わない坊っちゃんの体重を支えるのは大変なことです。それでも、なんとか手足を動かします。腕は痺れ、膝が床に擦れて痛みを伴います。 「ほら、歩け愚図」 「……ッ……やめてください」  パチンと尻を叩かれて、驚いて見上げると、坊っちゃんは竹のモノサシを持って愉快そうに笑っていました。さほど痛いものではありませんが、まるで家畜のような扱いに、かぁと頭に血が上ります。  坊っちゃんは、病弱なためか、どちらかというと大人しい少年です。野山を駆け回るよりは、部屋で本を読むことを好みます。他の女中や下男に横暴な振る舞いをすることもありませんでした。けれど、私と二人きりになりますと、途端に、意地が悪くなるのです。  パチン、パチンと尻を叩かれて、仕方なく前に進みますと、今度は髪を引っ張られます。 「止まれ、止まれ、」 「……ッ……いッ」  ぶちぶちと髪が抜ける痛みに眉をしかめている間にも、尻を叩かれます。 「ほら、進め、進め、」  パンパンと尻を打たれ、髪を引っ張られ、おふざけの域を越えた仕打ちに、私の忍耐も限界でした。 「いい加減にしろ!」  坊っちゃんを乗せたまま立ち上がれば、悪童はひっくり返って尻餅をつきました。目を丸くした坊っちゃんは、それでも直ぐに、ワッと泣き出します。 「うわぁん、お兄さんが突き飛ばした!」  坊っちゃんは、泣きながら子供部屋を飛び出します。怒りの鎮まりきらない私は、その辺りの椅子を蹴り飛ばしました。けれど、それもすぐに後悔することになります。 「身の程を弁えなさい」  顔をあげると、女中頭の婆さんが鬼の形相で見下ろしております。そうして、婆さんの背中に隠れていた坊っちゃんは、私を見つめながら、にやにやと厭らしい顔で笑っているのでした。  女中頭の仕置きは容赦がありません。  雨が降り頻る中、私はお屋敷の裏庭の大木に縛りつけられてしまいました。そうして「一晩、頭を冷やしなさい」とぴしゃりと言い捨てられて、私は置き去りにされてしまったのです。  私がどのような弁明をしても、意味はありません。直之様は私の(あるじ)で、私は彼に仕える下男であることを思い知らされるだけでございました。寒く暗い森のなかは、ひどく心細く、私はめそめそと涙を流すことしかできません。  翌朝には仕置きの縄は解かれましたが、身体がどこもかしこも痛み、ひどい悪寒と頭痛がいたしました。それでも、私は奉公を休むことは許されなかったのです。
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