服忌

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 私は浅はかで気の回らない木偶の坊でございます。だからこそ、私なりに若旦那様の仕草や声色に細心の注意を払ってきたつもりでした。  けれど、この頃の私は、直之様にどう顔向けしてよいやらと途方に暮れるばかりだったのです。それでも、私は直之様のお傍を離れるわけにはいきません。介助の度に、直之様がその身を強張らせるものですから、私は日に何度も後悔しなければなりませんでした。  それに、時折、物言いたげな視線を背中に感じることがあったのです。それがまるで咎められているようで、私は気づかぬふりでやり過ごすのがやっとでございました。そんな有り様でしたから、直之様がどのようなご覚悟で、あのようなことをおっしゃったのか、私にはわからなかったのです。 「お前は、男としたことがあるか」  それは、忌中が明けたばかりの秋夜のことでございました。寝着姿の直之様を寝台へ横たえている最中に、小さな声で投げかけられたのです。何を問われているのか、すぐには理解できず、驚いて顔をあげました。直之様の頬は火照り、瞳は揺れておりました。 「接吻はできただろう」  投げつけられた言葉は掠れておりました。窓の隙間から夜風が吹き込み、心許なげにランプの灯を揺らします。  そんな。まさか。唐突に、あの夜に引き戻された私は、どう返事をしてよいか狼狽えるしかありません。弱々しく握られた着物の裾。耳まで真っ赤に染めて、目を伏せる様は、まるで知らない生娘のようでした。その熱を帯びた頬に触れれば、その肩はびくりと震えます。 「よろしいんですか」  整った眉が歪み、唇が僅かに開きます。直之様の気が変わってしまう、と私は衝動に任せて、その唇に吸い付いておりました。くぐもった吐息に、固く強張った肢体も次第に力が抜けてゆき、私に委ねてくださるようでした。  私も男との経験などありませんでしたから、見よう見まねでございます。着物の襟から手を潜り込ませ、その肌に触れれば、やはりそれは痩せた男のものでございました。  それでも白い首筋に唇を寄せれば、直之様はくすぐったそうに身動ぎ、私の髪を優しく撫でてくださったのです。私たちは、どうしてよいのかもわからぬまま、ただ互いの昂りを慰め合うことしかできません。まるで初心な少年のように内心は萎縮し、息が詰まります。それでも、身体は異様なほどに火照り、直之様の拙い愛撫にも反応を示すのです。直之様はというと、固く目を瞑り、静かに吐息を溢して、未知の悦楽に堪えるように震えておりました。それはあまりにもいじらしく、そうして、おそろしいほど艶かしいのです。 「お慕いしております」  熱に浮かされた私は、沸き上がる言葉を口にしておりました。直之様は、濡れた瞳で薄く笑います。けれど、それは私の浅ましさを受け入れてくださるものではなかったのです。 「僕は母と似ているか」  ひたりと冷たいものが心臓を撫でた気がして、私は思わず直之様から身を引いてしまったのです。直之様は、気だるげに私の首に腕を回して引き戻し、労るように私の頭部を撫でてくださいました。 「つまらないことを言ったな」 「直之様は、奥様とは似ておりません」 「けれど、僕にもあの女の血が流れているだろう」  直之様の腕をほどけば、奥様によく似た切れ長の瞳がありました。その黒瑠璃には暗い闇が広がっているようです。  どこまで知られてしまったのか。  私は穢れているのです。それを直之様に、直之様だけには暴かれる訳にはいかないのです。私は逃げるように寝台から抜け出してしまいました。そんな私に、直之様は抑揚のない声で呼び止めたのです。 「文机に封筒があるだろう」  西洋風の机には、確かに封書が置いてありました。いつもの出版社宛だろうか、と手にした封筒には、見馴れぬ宛名があったのです。私は、ひどく嫌な予感がいたしました。けれどそれは、直之様が頼る相手が、松本先生であることへの妬ましさであったのかもしれません。 「明朝にそれを郵便局に出してきてくれないか」 「畏まりました」  私は臆病者でありました。この期に及んでもなお、朝倉家の下男であることを、免罪符にしていたのですから。
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