坊っちゃん

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坊っちゃん

 私のお仕えする若旦那様は、不運なお方です。  それは、若旦那様が東京帝国大学へ進学されて二度目の冬のことでございました。帝都より届いた電報には「ナオユキ ダイジ ヒロシ スグコイ」とあったのです。奥様は血相を変えて「すぐに下宿屋に向かって頂戴」と、私におっしゃいました。  慣れない汽車に揺られ、知らない土地の下宿屋街から若旦那様が世話になっている宿を探し出すのも一苦労でありましたが、ようやく見つけ出したと思えば、今度は女将が気の毒そうにおっしゃるのです。なんでも、若旦那様は大病院に入院したのだと云うではありませんか。これは本当に大変なことになったと私は内心、ぞぉとしたのでした。  病院というのは、どうにも好かないものです。木造建ての院内は、消毒液の臭いがツンとしておりました。けれど、それよりも鬱々とした重苦しい空気に、息が詰まるような思いがいたします。もっとも、身体を悪くした者が募るわけですから、仕方のないことやもしれません。  若い看護婦に案内されたのは一人部屋の病室でした。室内には、白い布に覆われた衝立があり、看護婦が「お家の方ですよ」と布越しに声をかけます。そうして、奥の方へと通されますと、そこには寝台から身体を起こし、枕を背もたれ代わりにして、御本を開いている若旦那様の姿がありました。 「遅い。愚図」  久方ぶりの挨拶は、不機嫌な舌打ちでございました。  朝倉家(あさくらけ)の若旦那様である朝倉直之様(あさくらなおゆきさま)は、西洋文化にご執心のハイカラなモダンボーイでありましたが、病室で身に付けているものといえば、よれた格子柄の着物に、紺の羽織。いつもはポマードで整えている髪も、今はおろされており、どうにも野暮ったい風貌をしております。  されど、生粋の美男子ぶりにはお変わりありません。少しやつれた顔色をしておりましたが、元々、男にしては色が白く、線の細い身体つきは儚げな印象さえあるのです。それでも、一重のすぅとした瞳が男らしさを際立たせているように思います。  朝倉邸に仕える若い女中などは、歌舞伎役者の女形の誰彼に似ている、否、誰彼だ、などと、直之様の美貌について、よく噂していたものです。 「家の者には手紙を書いた。退院するまで身の回りの世話を頼む」  直之様は、それだけ言うと、手元の本に目を落としてしまいます。私には、直之様に口答えできるような度量はありません。言われたとおりに、病室の隅にある椅子に座り、じいと声がかかるのを待つ他ないのです。そうして、「(ひろし)」と名を呼ばれれば、直之様の些細な用事を伺いました。  私には、なぜ直之様が、よりにもよって、私などに身の回りの世話を言いつけたのか、すぐには理解できませんでした。これは、これこそが、看護婦の仕事であり、私のような気の利かぬ木偶の坊が務まる仕事ではないように思えたのです。  けれど、数刻もすれば、答えは見つけられました。  直之様はご病気ではなく、不慮の事故で半身に大怪我をなすったのです。  二日前の冬の夕刻。大通りを走る自動車は薄い氷の張った水溜で滑り、対面を走る馬車に衝突。横転した馬車が、通りかかった直之様の半身を潰してしまったのだと、後から医者様から聞かされました。  着物の下には傷やら痣やらがあるようでしたが、中でも、もっとも酷いのは、両の足。右の足は腱が切れ、左の足は膝の皿が割れたというのです。直之様は、歩くことはおろか、立ち上がることも、自ら寝返りを打つこともままならない状態だというではありませんか。  いくら華奢とはいえ、力の入らぬ成人男性の身体を持ち上げるのは、大変な力仕事で、なるほど、朝倉邸に仕える下男で、一番からだの大きな私が適任であることが知れました。  そうして、もう一つ、どうしても看護婦では駄目なことがありました。  直之様はむすっとした赤い顔で、「あれを取ってくれ」と寝台の下にあるガラスの器を指差します。なんとも妙な形で、水差しのように見えなくもありません。 「あっちを向いていろ」  何に使うのだろうと、水差しを持つ直之様を眺めていると、細い瞳を、更に細めて睨まれてしまいます。  言いつけどおりに直之様に背を向けると、ごそごそと音がしました。それからしばらくすると、ちょろちょろと水音がして、私は吃驚してしまいました。いえ、直之様も私と同じ「人間」ですから、小便ぐらいするでしょう。頭ではわかっているのですが、あのように澄ました顔の美男子が、あの水差しに小便をしているのだということが、どうにも信じられないのです。  こっそりと頭だけ振り返りますと、直之様は背中を丸めて、小さくなっておりました。背中を向けているので、表情はわかりませんが、着物の前を開いているようで、包帯でぐるぐると巻かれた痛ましい足が覗いておりました。そうして、あの水差しを股ぐらに挟んでいるのです。それが「尿瓶」というものだと知ったのは、その後のことでした。  よほど我慢していたのか、ようやく水音が止みますと、尿瓶には黄金色の水がたまり、独特の臭いが室内に広がります。 「これはどうすればよろしいですか」 「便所で捨ててこい」    直之様は、顔を赤くして怒鳴りつけました。直之様の羞恥に、私まで気恥ずかしい心持ちになってしまいます。私が病室に駆けつけるまでは、用を足すときは看護婦に付き添われていたのでしょうか。私を病室まで案内してくだすった看護婦は、私たちより少し年上の別嬪な娘さんでした。看護婦からすれば患者のシモの世話は仕事のうちなのでしょう。けれど、二十一歳の男子にとって、若い女の前で小便を漏らすなどという醜態を晒すのは、大問題です。男子の沽券にかかわります。特に、直之様のように格段に自尊心の強い紳士には、耐え難い屈辱だったことでしょう。 「いい気味だと思っているんだろう」 「思っておりません」 「嘘をつけ」  直之様の声は震えておりました。  それがあまりにも不憫で、私は胸が締め付けられるような、それでいて溜飲が下がるような、そんな不可解な感情に戸惑ったのでございます。
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