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五億デシベルのアラームがじりじりと本能に訴える音をたてて鳴り、空間ごと捻じ曲げるようなそれが睡眠不足の頭に痛いほど反響した。
猫の胴が無限に伸びていく先を文字通り夢中で追いかけている風景を騒音でぶつ切りにされた私が「昨夜は部屋中に合計二百個もの目覚まし時計を仕掛けたのだったか」と多少恨みがましく記憶をたぐりながら薄目で見つめた先にある音の発生源はたった一つの小さな時計ばかりで、その奥ではエアコンの風に揺られたカーテンの隙間から朝日が冬の朝らしい控えめさをもって宙をただよう埃を照らしている。
いつの間に育ったのか、夜のうちに象でも乗ったかと思うほどの重さを手に入れた両の目蓋をなんとか持ち上げて確認した時刻は午前六時。そろそろ支度をしなければと五万年横になっていた体をどうにか起こす。
日頃の運動不足のためか肩甲骨の間にモルタルを塗り込められたような不自由さを覚えて伸びをすると、心地よい痛みとともにぱきぱきと骨が鳴った。もしかするとそれは今から始まる一日の長さを予感した私の体があげた悲鳴だったのかもしれない。だとしたらかわいそうなことをした。
ことこうした起床動作に関していえば大義だとか億劫だとか、そんな物言いはあながち誇張でもないだろう。起きるというのはそれほどの労力を伴う大仕事だ。
本当のことを言えば私は一日に三十時間ほども寝ていたいというのにこうして起き上がるのだから、なんらかの賞を貰うべきだしその偉大さを讃えてぜひ出生地の駅あたりにかっこいい銅像でも建ててほしい。銅像には猫が休むのにちょうどいいスペースなんかもあると最高だ。時おり頭や指先に鳥がとまったりするのもいい。
修学旅行シーズンにはきっとお調子者の学生たちが私の像と同じポーズで記念撮影をしようと長蛇の列を作ることだろう。それは全く想像するだに微笑ましい光景である。
布団を脱ぎ捨てた瞬間容赦なく襲いかかってくる氷河期が来たかと思うような低気温に、なるほどこれ程までの寒さであったら生物の大量絶滅が起こりもするだろうと納得しながら「令和ちゃんも四年目なんだからもうちょっとペース配分考えようね」などと非存在への責任転嫁をするのも虚しい朝のルーティーンだ。
言っても詮無いことであるとは分かっている。瞬きのたびに季節が変わるような節操のなさを、では私は一体誰に訴えればいいのだろう?
節操がないと言えば私の若い頃には古風な情緒を持つものを昭和と呼び習わしたものだが、移り変わる季節のごとく遠からずその地位は私が生まれた時代である平成に取って代わられるだろうという予感が近ごろ実感に変わりつつある。私が十代であった時代には流行遅れと見做されていたものが最近の若者の間では新鮮な魅力を持つ新たな存在として受容されているのを見るにつけ、流行は循環するという事実を肌で感じてはもはやそれらについていく力の失せた自分の姿を発見するのだ。
こうして人はいつの間にか「現在的な若さ」という概念からぐいぐいと引き離されていくのかもしれない。十年一昔とはよく言ったものだが、こうも世代の移ろいをまざまざと眼前に突きつけられる物悲しさや世の無常を思うと、このごろの冷え込みは何も急激な気温低下のせいばかりではないような気さえしてくる。
そうは言っても現実にはこの底冷えするような寒さの原因として暖房設定のエアコンから何故か冷風が吐き出される謎の仕様がおおいに一役買っており、一体どうしてこんな仕打ちを受けるのかと首を毎度傾げるばかりである。
なぜ暖めたい部屋に氷のような空気を招き入れねばならないのか、このことは地球に生きる上で最も許しがたいことの一つだ。
今年の秋が例年にも増してひどく短かったせいか、エアコンの方でもまだ冬の到来を認めていないのかもしれない。そう思うと少しばかり同情の念が湧いた。エアコン、お前も移り変わる季節に置いて行かれる側の存在だったのか。
同類相憐れんだところで依然として冷たい風を吐き続けるのだから、つくづく機械というのは融通のきかないやつである。雨がいくら降り注いでも全くもって地は固まらず、いよいよべちゃべちゃとぬかるんで安全圏を脅かしていく。
一人暮らしを始めた春に買って以来十年使い続けている、とうに私の趣味ではなくなった柄のカーテンを開けて窓の外を見ると、眼下には春の鮮やかな色彩がまるで幻か何かだったように枯れ果てた木々が並ぶ。秋来ぬと目にはさやかに見えねども、と言うよりは移りにけりないたづらに、の速度で風景が変わっていく。秋はどこへ消えた?
だんだんと一年の体感時間が短くなっていく。ひょっとしたらこの星は本当は少しずつ加速しているのかもしれない。このままのスピードで世界が回ったら、アポロ百号はどこまで行けるんだろう。そんな歌を口ずさんだ少女の頃はそれこそ遥かな昔だ。
吐いたそばから氷柱になっていく真っ白な息を見ているうちに新しい上着が欲しくなった。
二年前に世界で一番ファッショナブルに違いないと確信して購入した鮮やかな空色のコートは、二十八歳になった今ではアクシーズファム側が想定していないアクシーズファム着用者のような印象を鏡と向かい合った私に与えてやまない。
この二年で変わったのは私か世界か、きっと両方なのだろうしそれは両方変わっていないとも言うことができる。私の身の上に起きる変化など大体が偉大なる地球の天体運動に比べれば数十億年の間当然のように繰り返されてきた演繹の一つにすぎない。
なるほど人間は渡りの雁が海上で羽を休める役割を務めるだけがせいぜいの——ことによったらそれは過分な名誉であるかもしれない——ただの葦である。ただその葦は風に吹かれて思考する葦であり、なおかつ過剰な自意識を抱える葦でもあったので寒さに負けてこの似合わないコートを着用するのは躊躇われた。
服装の選択肢に年々「私の年齢でこれを着てもよいものか」というファクターが強く絡みついてくる。若くなくはないがすでに若くもない私は、人生百年時代のこれから先一体何を着て生きていけばいいのだろう。
かのアインシュタインの「第三次世界大戦で使われる武器など想像できようはずもないが、それがもし起きるのなら第四次世界大戦で使用されるのは石と棍棒だろう」という発言によるならば、五十や百で自分がどんな服を着ているのかなどまるで想像もつかないが、二百五十歳の天寿を迎える際に私が身に纏っているのはきっと真っ白な死装束だろう。過度な細分化は時に極端な同質化を促す。収斂進化のなれの果てである。
だが私は年齢なりの無難で個性のないいわゆる安全な服などを着たくはないとも考えているのだから、いよいよ服選びは困難を極める。レストインピースはまだ遠い。奪衣婆の前に踊り出ても「あんたはまたそんな寒そうな格好をして」などと逆に服を着せられ、彼女の意外な一面に心を暖かくすることだろう。攻めてはいたいが流行はもう追いたくない、そんな気難しい年頃なのだ。
さながら私は服飾文化という荒れ狂う大海に放り出された哀れな小舟であり、あるいは鑑真もこんな気持ちで海を渡ったのかもしれない。ぱっくりと海が割れてくれさえすればさぞかし歩きやすかろうがとありもしない夢想に縋っても仕方がない。取り急ぎ吹きすさぶ寒風を凌げるだけの蓑ばかりは欲しいものだ。
この前美容院で見た雑誌に載っていたダウンジャケットは素敵だったが想像の八万倍高価で、私の収入では到底手が届かない。ところで男性美容師に髪を切られている時にファッション雑誌の下着特集ページを開いてしまった瞬間の気まずさに名前をつけたいのだがどうだろうか。
悪魔はエクソシストに名を知られると祓われるという。
二秒後には忘れるような会話を交わしながら神経の九割九部を集中させた目の前の電子端末に黒やらチャコールやら茶色やらが踊る時代にあっても——だからこそであろうか——きらびやかな色彩を保つ下着特集ページが一面に広がって肝を冷やすあの現象にも呼び名ができたら、いかにしてそれを乗り切るかという画期的な方法論が確立するかもしれない。
それこそ美容師は私の髪に九割九部の注意を割いていてその毛の持ち主の頭越しに端末にどんな画面が表示されているかなど毫も気に留めていないのかもしれないが、これはひとえに私の自意識の問題なのだから仕方がない。私は『悪徳の栄え』も『マダム・エトワルダ』も先に述べたのと同じ理由で電車の中などでは読み進められないような人間だ。本当にどうしたら良いものだろう。
あの時間は相当に耐えがたいものがあるが、かといって面積の少ない布地がバラエティも豊かに画面いっぱい表示された瞬間に慌てて電子端末のページを繰るというのも成人女性の反応としては変に他者を意識しているようで恥ずかしく、もはや考えることにも疲れたので、次回は堂々と盛りブラやら控えめブラやらを眺めようと思う。
サドやバタイユを背後に他人が存在しうる環境で読もうとはいまだ思わないが、美容院下着雑誌の件についてはこれで一応の解決を見た。自分の横で平気な顔をしてピクニックを始められては、悪魔も苦笑いと共に退散するほかないだろう。
ともあれジャケットを買うにも髪を切るにも下着を手に入れるにも、何となれば悪魔祓いを行うにしても、さしあたって必要なものは金である。五千兆円欲しい。結局のところ大事なのは金だ。ああ、お金が欲しい。
喉から手が出るほど欲しくて実際新しく腕を生やしたおかげで、今は左手が三本ある。右手の方は昨日で四本になった。たしかピザが食べたかったからだ。この体たらくは私の欲深さをそのまま表しているようで情けなくはあるが、しかしながら足が左右合わせて十七本ある事を考えるとこれは控えめな数字であると言えよう。
奇数なので靴も靴下も半端に余ってしまうのがなんとも気持ちの悪いものだが、これについてはもう買ったシャツについてくる予備ボタンのようなものだと割り切ることにしている。
その足で向かう先と言ったら職場かスーパーマーケットしかないのが悲しいところだ。
仕事が終わって自宅の最寄り駅に着き、どたどたと周囲を威圧しながら十九時半過ぎの弁当売り場に駆け込む私は韋駄天あるいはコモドドラゴンの名をほしいままにし、自炊の方が健康的で安くつくという心のどこから聞こえてくるのかも判然としない実情の考慮を全く放棄した声を野球選手よろしく豪速球で彼方に放り投げつつ明日への活力となる割引弁当を吟味する。
体重の増加など知ったことではなく、懐具合もこの際忘れ、その時私の脳が求めてやまないのはただひたすらにカロリーだ。それもこれも最近とみに増えた業務量のためである。
働いた時間に応じてきっちりと支払われる残業代に文句はないものの——同じ量の業務を定時までに終わらせたら報酬はないのか——、激務を見越して豪華な昼食を摂り、その帰りには自分へのご褒美と称して本を買いケーキを買い、また給与が振り込まれれば基本給に上乗せされた金額に興奮して余計な買い物をし、一万円貰えば三万円浪費するような調子なのだから定時退社で節制するのとどちらが得なのか知れない。
そんなことを滔々と考える間にも洗顔と着替えを全くの無意識無感情のままに済ませているのだから、つくづく人間の習慣というものは恐ろしい。
湿った顔は何で拭いたのだろう。無意識下の判断というものは便利でありこのように同時に危うい。だがその機能がなければ私の思考はたちまちパンクして一日中「息を吸って、息を吐いて、息を吸って、息を吐いて」とぼそぼそ呟くだけの廃人と化すだろう。何事も慣れである。
たとえば私が死体プールで浮いてきた個体をひたすら沈める仕事に就いたとしても、いやだ怖い帰りたいと泣くのは初めのうちだけで、やはりそのうちに慣れて銅像がどうだとか下着特集がこうだとか愚にもつかない考えを巡らせながら淡々と作業をこなすことだろう。
きっとその時も朝の慌ただしい時間の中でベッドの上に乱雑に脱ぎ捨てられた寝間着に意識を割くことも、顔から滴り落ちる水滴を吸わせたタオル地の行方に注意を払うことも無いというのだけは断言できる。適応と鈍化の境界は極めて不明瞭だ。あるいはその二つは同じものを意味するのかもしれないが。
朝から物騒なことを考えたせいか、それとも前夜に食べたこってり唐揚げマヨネーズ弁当大盛りのせいか、何か粘性を帯びた重たい物が喉と胃の間にうずくまっているような感覚がして、化粧道具を乾燥機から出したきり畳まれていない洗濯物の山の下から発掘しながらうっすらと吐き気が起こる。
しかし平日の朝にそんな自分を気遣うほどの時間的余裕はない。構わず支度を続行する。
バナナを齧って額と鼻と頬と顎にパール大を薬指に取った肌の赤みを隠す薄緑の下地をちょんちょんとつけ、カップにそれらが付着しないよう注意深く電子レンジで温めた白湯もどきを口に流し込んでから下地を指の腹で伸ばし、テレビに映るほのぼの動物ニュースでハシビロコウの食事風景をしばし眺める。
少し時間をおいて肌に馴染んだ下地を柔らかく叩き込み、またバナナをひと齧りした後にフェイスパウダーを手に取った。
下地を塗った後にしばらく放置したところで本当に肌馴染みが良くなるのかは知らない、どころかそんな話を何処かで聞いた試しもなく、これはただただ私がそんな気がするだけという理由でやっているおまじないのようなものである。案外そうした何となくの積み重ねこそが私という個をそうたらしめているはずで、このおまじないが化粧のりの良さという点に関しては無意味だったとしても私の人生に何らかの意義をもたらしうるものと信じたい。
古来拷問には、なんの意味もなく重い石臼を碾かせるといった責め苦があるそうだ。それは肉体的にはもちろん精神的にも多大な負荷を与え、奴隷あるいは犯罪者の意思を挫くのに大いに役立ったようである。大変な努力が全てなんの意味もなさないということが、私たちは怖くて仕方がないらしい。
私とても無駄な努力はしたくない。だがどんな行動が無駄でどれが有効なのか、肝心のその答えが分からないのだからこの人生そのものが先の見えない拷問のごとき苦行の様相を呈している。
それならばいっそこの場所から一歩たりとも動かずに一生を終えようか。だがそれこそ本当に何の意味も生み出さない行為であることだけはただ一つ残酷なほど明白であり、私は今日も自分の人生における行動になんらかの意味が付帯されるはずだと信じてじたばたと哀れにうごめくのである。
テレビではまだハシビロコウの特集が続いている。ハシビロコウは驚くほど微動だにしないことで有名な鳥だが、それでかえって「あのハシビロコウが動いた決定的瞬間!」といった映像ばかりが取り沙汰されるために、結果「かの鳥はそれなりに動く」というのが私がハシビロコウ諸氏に対して現在持つ印象だ。漫画作品における二月二十九日生まれやAB型Rhマイナスや全属性持ち、あるいは無属性のキャラクターと同じようなものかもしれない。この世界にはきっとエクスカリバーが何本あっても足りないことだろう。ブリテンが島国でなかったらアーサー王物語はもっと泥沼のようなややこしさを展開させていたかもしれない。
そうこうするうちに眉毛を描き終えた。化粧が日常になって長いこと経つが、今もって眉頭をどこまで描き込むべきか分からずにいる。
人間は理解できないものに恐怖を覚えるといい、そういう訳でつまり私は眉頭をかなりの強さで恐れていることになるだろう。有名な落語にあるように寝て起きて枕元に古今東西津々浦々、大量の眉頭サンプルが並べられていたならば私はきっと怖くて泣いてしまう。
暗闇の中を手探りで歩くような恐ろしさを抱えたまま今日も茶色の眉マスカラでただでさえ分からない皮膚と眉の生え際の境界をさらに曖昧にぼかしていく。あまりはっきりと輪郭を描き込まないのが当世風であるらしい。そのうちに化粧文化の中で眉は肌の色と完全に同化して消えてなくなるのではないか。そうなってくれた方が化粧の工数は減るし、もともと眉毛の薄い私としてはありがたい限りである。
五本一房で税抜き九十八円のバナナのうちの一本をいよいよ食べ終わり、次にアイシャドウを指に取る。これが大抵一度塗りでは望むような発色にならず、思い切った二度塗りでのっぺりと立体感のないぶざまな厚化粧と化して後悔しながらティッシュで拭き取ることになる。
後悔までが手順の一つに組み込まれてしまったが、これも一種の様式美と諦める他ない。やらない後悔よりやる後悔だ。そこから何一つ教訓を得ていないことに関しては、今のところ考えないようにしている。
こんなふうに食事と化粧を交互に行うのは、その方がスピーディに動けるような気がするからだ。化粧下地を肌に馴染ませるようなおまじない行動の一つに数えることができるだろう。
しかし、この行動に関しては迷信の枠を超えた確かな意義もまた存在している。
朝はとかく注意が散逸しやすく、たとえばバナナを食べるという一つの行動だけを選択すると「バナナはなんておいしいんだろう」という気持ちに心が支配され、ぼんやりとそしてゆったりと食事を楽しんでしまうのだ。
一分一秒を争う社会人の朝に、そんな優雅な時間はいらない。それに、この時に下手にくつろいでしまうとこれから電車に乗って出勤し、八時間あるいはそれ以上の労働を行う事実を受け入れられなくなってしまう。
化粧、食事、化粧、食事、時々ニュースといった具合に脳を同時並行的に処理されるタスクで埋め尽くすことで、余計なことを考えずに家を出るための準備を整えることができるというわけである。現実から目を背ける能力は、現代社会を生き抜くにあたって必須のスキルであることは言うまでもないだろう。
最も新しい時代を生きる人間にとってシステマチックに脳容量をパンクさせることがライフハックになっていると、原始人は想像できるだろうか。遠い子孫である私を見て、毛深い先祖は悲しむかもしれない。あるいは遠い祖先を思って子孫が泣いてくれるのかもしれない。
ただヒューマンエラーは起こりうるもので、こうしたマニュファクチュアルのメリットをかなぐり捨てた動きの中で昨日私は真っ赤なリップを眉に塗りかけた。やはり眉、眉なのである。全く恐ろしい存在だ。ただ、いっそそのまま鮮やかな色彩を目の上に塗りたくりファッションモンスターと化してやろうかという考えを冗談のままに終わらせるだけの理性はかろうじて残っているのが現代人のわびしさである。
さて出勤時刻も差し迫ってきた。
ここでいつもある程度の支度を終えてなお十分かそこらの余裕を残しているものだが、では毎日のんびり家を出ているかといえばそんなことはまるでない。どうせ時間が余ったのだからと今日履く靴や腕に巻く時計をどれにするか、この組み合わせならば髪型を変えた方が良くはないか、などと予定になかった逡巡や動作を次から次へと放り込むうちにいつの間にか出発リミットを微妙にオーバーして結局小走りに駅へと向かうのが常である。
朝は極限まで眠っていたい、職場に着くのは始業直前でいい。ごく自然なその願望に「電車が遅延したらどうしよう」という生来の小心をひと匙加え、いつも乗る電車は七時三十六分発と決まっている。
混雑の度合いによって多少の前後はあるものの、ホームでの待機場所も乗車後のポジショニングもだいたいは同じである。朝はもうとにかく何も考えたくはないのだ。くらげのように海流に乗せられるまま漂っていたい。
そんな私と同じように、いつも同じ車両同じ位置に陣取るくらげ仲間は数えられる程度には存在する。ことによればそれらのくらげを遅刻メーターの指標として採用する場合もあるほどだ。
名前も知らない顔見知りのくらげを見付け、今日も何とかいつも通りの電車に間に合ったと安堵する。相手の方でも私のことを時刻を測るくらげだと認識しているのかもしれない。
二度の乗り換えを経て職場の最寄駅に着く頃には私はすっかりくたびれて、下りのエスカレーターで出荷されながらすでに一仕事終えた瞬間のような感慨さえ浮かぶ。しかしここまで来てしまった以上進むも地獄戻るも地獄、とくれば同じ地獄なら働かなくて済む方を選びたいのはやまやまだがそれでも血の涙を流しながら駅に背を向け労働を選び取るのだから、これはもう意志が強いのだか弱いのだか分かったものではない。
体が冷えると心も冷える。そんな持論を盾に寒い時期は朝職場最寄りのコンビニで温かいココアを買うことを自分に許している。
本当はホット飲料コーナーの前で立ち止まり今日はどれを選ぼうかとじっくり悩みたいのだが、何しろこのコンビニは社会人が出勤前に立ち寄るのにあまりにも適しすぎた立地であるため、手狭な店内はいつも開店したてのフライングタイガーコペンハーゲンのように混んでいる。
そんな有様なので人の流れを堰き止めてまで考えあぐねたいこだわりも特にない私は吹き抜ける風のように颯爽と入店し、セルフ電子レンジの待機列をすり抜けて目当ての棚の一番下に並んでいるホットココアをするりと手に取り会計待ちの列に並ぶのだ。 これがリアルタイムアタックならば、私はかなりの上位ランカーに違いない。ただ、この時週に一回は列に割り込まれる遅延行為が発生する。許せない。
そうしてどうにか無事始業のエンジンをかけるための飲料を手に入れるのだが、どういうわけだかこの店で買うココアはいつもぬるい。陳列したばかりで充分に温まっていないのかと思えばそうでもないようで、時に気まぐれを起こして選ぶホットミルクティーやらホットカフェオレやらは両手で持っていられない程熱いのだ。
通勤で冷えた内臓を温めるのが目的なのだから、それならば今後はすぐに熱の消えるココアなど捨てて温かい飲料を選べばいいかというと事はそう単純ではない。朝はココアという習慣に慣れきってしまったためにココア以外のものを選ぶと初めの一口から違和感を覚えることになるのだ。それから飲み切るまでの間中ずっと「やはり選ぶべきはココアだったか」という想いを抱える。誰も悪くはないのにうっすらとストレスを感じる、これは全く悲劇である。それも人に話したところで誰からの共感も得られないであろうどころか奇異な目で見られることの分かりきった、己の内に秘める他ない真の悲劇だ。だから毎朝ぬるいと思いながら、私は今日もココアを選ぶ。
そもそもなぜココアを選ぶことが習慣になったのか、初めのココアは一体どこから来たのか。その歴史を紐解くと、これが私自身曖昧にしか記憶していない「コーヒーよりココアの方が集中力が増すらしい」という健康番組か何かで聞きかじった情報による。
誰が言っていたのかももはや思い出せないのに、おぼろな記憶ばかりが今も私を愚直にココアへと駆り立てる。これはもはや一種の信仰と言えるのかもしれない。ならば多少ぬるいくらいのことがなんの問題になるだろう。
イワシの頭だって空飛ぶスパゲティ・モンスターだって信仰の対象になりうるのだ。それならココアを信じたっていいではないか。こうして並べると食べ物ばかりである。神は案外食べたら美味しいのかもしれない。衣食住足りてなんとやらという言葉があるくらいだ、この考えはあながち的外れでもないだろう。
ココアを恐れよ、しかしてココアと和解せよ。幸いなるかな、貧しき人よ。汝はココアのぬるさを知らぬゆえに。などと平均収入以下の賃金で生活する私が宣うのはとんだ笑い種だろうか。ではこうしよう。これは聖戦である。私を愛する者は後に続くがいい。ココアを買えよ、増やせよ、地に満ちよ!
脳内でそんな小芝居を打ちながらオフィスビルの自動ドアを通り、エレベーターホールの列に着く。電車の列にコンビニの会計待ちに、なんだか朝は並んでばかりだ。
ここがサバンナならば弱肉強食、百獣の王ライオンに生まれたならしめたものと列など無視して堂々と割り込むのだろうし、か弱いバンビとして生を受けたならできる限り安全な群れの内側へ内側へと入り込むべく、やはり列を無視するだろう。
先頭の個体に群れが被るであろう災厄を全て肩代わりさせるために最終的には自身の利になるとした上で列を作る習性を持つ動物もいるが、通勤ラッシュの只中で人間たる私は今ホームにちょうど停まっている電車に絶対に乗りたいしできれば空いた座席に座りたいしもっと言えば三人分の座席を一人で使いたいし、買う物が決まったのなら混雑したコンビニの店内など一秒でも早く会計を済ませてすぐにでも出てしまいたい。それでもしっかり順番を守る。
そう考えると動物であるところの人間がこんな個人の益にもならない他者を視野に入れたルールを利口に守っているのは全生物をずらりと並べて品評会をしたならば、なかなかにアバンギャルドな習性ではないだろうか。サバンナならばとんだ異常者である。そしてその異常性こそが我々を万物の霊長たらしめる所以だろう。
ただ待つということのために待つ。案外こんな無意味な待機時間こそが自宅で一晩好き放題に過ごしてだらけきった頭に人間秩序を改めて叩き込み、社会的動物としてその精神を作り替えるための儀式として機能しているのかもしれない。
人生で最初に並んだ列はどこだったろう。なぜ人は律儀に順番を守るのか。なぜだか分からないが並んでいる。そうするべきだと感じるからだ。では列に並ぶ事は信仰だろうか? 愛していなくても唯々諾々、前を歩く後ろ姿に続く。これ以上増えなくてもいいと感じるほどに増えた地球人口はしかしまだまだ増加の一途にあるらしい。
到着したエレベーターになだれ込みながら、今ならまだ逃げられる、という思いが鼻先を掠める。
踵を返して駅へ向かい、閉まり始めたドアに滑り込もう。観光客に紛れて朝の繁華街へ繰り出そうではないか。
海の見える場所がいい。
そうだ、横浜中華街へ行こう。
目に浮かぶ青い波を見よ、まぼろしの潮騒が私を呼んでいるようではないか。
それは思うだけで決して実行されない。私はいつでもそれができる、いいか今にも逃げてやる。逃げる、逃げるぞ、逃げるったら。そう思いながらくらげの足は流れに飲まれてエレベーターの扉が閉まる。
私が平日は決まって出勤することを信仰する、社会的動物たる人間だからだ。
会社の外にいるときは世界中の全員がいかに労働から逃れるかに心血を注いでいるように見えるのに、いざオフィスに入るともしかしたら私以外の世界中全員がお仕事大好きなのではないかと思われる光景が広がっている。
始業前であるにも関わらずコピー機の前には順番待ちの列ができ——また列だ——、営業組が悪態をつきながら返信を打つ。
私もそうした例に漏れず、仕方なしにパソコンを起動して昨日一時間ほど残業して逃げ帰った後に届いたメールをかちかちとクリックしていく。
これは秩序云々の話ではなく、すでに仕事を始めている者が散見されるオフィス内のデスクでスマートフォンを堂々と操作するほどの度胸を持ち合わせないからである。社会的動物の悲しき習性だ。
受信箱に表示された未読表示の濁流の数に目が眩む。情報共有の名の下に何でもかんでもCCという悪魔の発明によっていかにも面倒な案件に巻き込まれていき、食らった覚えのない毒のために美味くもない皿を齧ることになる虚しさは言いようもない。
しかし中には私自身が食らった毒杯を地面に叩きつけ連帯責任と称して中身を撒き散らす例も数知れず、ならばこの世は持ちつ持たれつという事だろう。甘んじて附子を舐めて死のう。
そうして望んでもいない労働で身に付けたくもないスキルを身につけていくことがこの先定年まで続くと思うと気が遠くなる。それどころか今の時代、六十歳で円満退職、年金暮らしの悠々自適などという言葉はおとぎ話の「いつまでも幸せに暮らしましたとさ」と同程度に抽象的な概念に成り下がっているのかもしれないのだからやっていられない。暴動でも起こそうか。しかしそのやり方もわからないのだから、激怒はすれども王への直談判などするはずもない便利な羊さんである。
しかし内心に怒れる羊を匿っている私と比べてみると、やはり周囲の労働意欲は極めて高いように感じるのだ。
あんなにたくさんいた「職場に隕石が落ちないものか」などと言い出す私の破滅的仲間たちはどこへ行ったのか。みんな永遠の四歳児じゃなかったのか。大学の追い出しコンパで「永遠にモラトリアムを引きずって生きよう」と笑い合ったあの夜は嘘か。もしかするとそれらは全て私が見た幻覚なのかもしれない。
とすると今目の前に山と積まれたペーパーレス社会が裸足で逃げ出すような書類たちも夢まぼろしであるのかもしれず、試しに適当な束を掴んでシュレッダーに向かおうとしたところで同期の笹川に止められた。どうやら私はまだ正気だったらしい。とっくに正気を失っていたと言うべきか。何が正気かすら、もうすでに分からない。そもそもそれを決めるのは誰だ? 全世界から狂人と認められた人物が、その実世界でただ一人正気を持ち得た人であったならどうだろう。そのことを誰とも分かち合えない寂しさはいかばかりのものだろうか。たいそう辛い事だろう、それこそ狂ってしまうほどに。そんな苦しみを味わうより、私は堂々と正気を失い、自分自身そのことにも気が付かないでいられる社会大多数の一人でいたい。
幸い急ぎの業務も無く逃げるように定時で退社した私は、下りのエレベーターが一階に着いたところで誕生日の近い知人がいるのを思い出してため息を漏らしそうになった。
相手のためを思ってプレゼントを選ぶことほど楽しいことはないと公言して憚らない私であるが、そんな私がげっそりと項垂れる時点でその相手との関係性は推して知るべしである。
自分の周りには不思議と幸運な人間ばかりが集まり、疎遠になった人間ほど心を病んでいく。得々としてそのように語る学生時代から付き合いのある彼女が、私は心の底から苦手だった。適者生存という言葉を教えてやろうかとよほど悩んだものだ。
だが狙った場所に隕石を落とす能力を持っていたとしてもきっと実行には移さないのと同じように、私はこの破壊的な衝動をそっと心の中に閉じ込めた。
ある種宗教的な自信を持った彼女が何を信仰しているかと言えばそれはきっと彼女自身であり、彼女を信仰しない私にとってその言動は目の上のコブのような鬱陶しさを常に与えた。
贈り物を選ぶのを面倒に思うような相手ならさっさと縁を切ってしまうがよいというのが単純明快クレバーかつスマートな見解であることは疑うべくもないが、向こうが私の誕生日が近付く度にプレゼントを贈ってくるのだからそれではこちらも返さないわけにはいかない。贈ってくる、とは随分な言いようであるが、これが本心なのだから仕方がない。
ここ二年ほどはうまく没交渉に持ち込むことに成功していたが、三月ほど前に懐かしい学生時代の顔ぶれで集まったことがきっかけとなって交流が再開してしまった。
いくら嫌いな相手だからとて、実家暮らしの過分な財力によって贖われた贈り物を無視できるほどには私の中の自由は育っていないのだ。兎角に人の世は住みにくい。
この何とも気が重い仕事を片付けてしまうため、駅に着いた私はホームには向かわず人で賑わう駅併設のショッピングセンターを訪れた。無視できないなどと言いながら休日にわざわざ買い物に出るのではなく仕事で外出したついでに用事を済ませてしまおうというのだから、私という人間の中にも薄情さと小賢しさはそれなりに育っているものと見える。
何が気が重いといえば、この知人は虫が好かないばかりでなく毎度プレゼントのオーダーが絶妙に面倒なのだ。
スカーフが欲しい。けれどこのスカーフは髪飾りにするもので、いわゆるスカーフにあるあまりにたっぷりとした量感はいらない。だが、元から頭に着けるためにハチマキのように細く切られたものは使用の幅が狭められるのでよくない。それでいてイエローベース、骨格ウェーブの自分に似合うデザインのものが好ましい、云々。
まるで謎かけである。かぐや姫のオマージュだろうか。あるいは入手経路が明らかであり、あるいは模造品を用意する余地があるだけかぐや姫が求めた宝物の方がいくらか良心的でさえあるほどだ。この注文を聞いた時「お前は竹籠でも被っておけ」と喉元まで出かかった。
他人にそれだけの献身を要求できる彼女の自信は美徳だが、それは彼女を信仰する者に限って有効なまやかしである。この宝探しを面倒だと感じる時点で、彼女が自認するところの私からの評価と私が彼女に向けた評価の激しい乖離は明白だ。
私は彼女を愛していない。心一つで、これほど二人は遠くなる。
もし大切な友人が彼女と同じ物を所望したなら、私はきっとその希望に叶う至高の逸品を手に入れるべく東奔西走しただろう。この場合は古典竹取物語にあるごとく、友人の方も私が友人を愛するのと同じだけ私を愛しているかは不明である。
愛といえば、ついこの間印象的なできごとがあった。
一人で映画を観に行った時、三時間はある上映時間の半ばごろに中座し二度と戻らなかった二人組がいたのである。私はエンドロールを見送りながら、怒涛の展開を前に去ったその二人の姿を想っていたく感心していた。
両者がこの映画をもうこれ以上観る価値のないものだと判断した上で出ていったのなら二人の感性は奇跡的なまでによく似て相性がよく、またもしも片方が鑑賞に耐えられないと訴えるのに合わせてもう片方も後ろ髪引かれる思いを断ち切って一緒に館を後にしたのなら、その判断は敬服に値する。これこそが美しき愛の形ではないか。では、相手の益のために自分の損を厭わない姿勢こそが愛の本質であろうか?
愛についての例をもう一つ挙げる。
母が幼い私のために作るホットミルクにはいつも大量の砂糖が入っていた。 さい頃の私はひどく偏食で菓子ばかりを好み、母はそんな私がとにかく甘い物ならなんでも気に入るはずだと信じている節があった。しかし頭痛がするほど甘く味付けをされた温かい牛乳は私にとって劇薬にも似て、もったりとした気持ちの悪さが口中に広がる感覚がとてもいやだった。それでも温かいうちはまだましで、できるだけ味を感じないように舌を硬口蓋にぴたりとはりつけてちびちび飲むうちにそれはどんどん冷めて、ますます飲みづらくなっていく。
最後には溶け切らない砂糖がコップの隅で砂利のように凝って、ああまだ一番つらい仕事が残っていた、と気が重くなったものだ。だから自分でそれを作ることができる歳になるまで、私はホットミルクが嫌いなのだと思っていた。
当人にとってありがたくない愛は推奨されるべきか? 何が言いたいかといえば、返礼をせざるをえない贈り物をする善意は非常に厄介だという話である。
損得でしか愛を測れない貧相な価値観に自分自身でも嫌気がさす。私は果たして自分のために何の役にも立たない、どころかその善意によってこちらに多大なる損害を及ぼす善き人を心から愛することができるだろうか。きっとできないのだろうし、だからこそ私はオレンジ色のスカーフを握りしめながらぶつけどころもない怒りを抱えている。
死海のほとりに立つ資格があるかないかで言えば、私はそれを持たない方の人間であるだろう。十字架を背負って歩く人にすすんで腐ったトマトを投げつける自信さえある。
特に欲しくもない贈り物を受け取る見返りに特に贈りたくもない相手のために贈りたくもない物を買うのは私が世の無情を感じる事象の一つだ。
腐れ縁というなら早いところ腐り落ちて欲しいこんな奇縁がかれこれ十年近くもしぶとく生き残り、かつて惚れて惚れて惚れ抜いて、一生のうちでこんなにも愛する人は他にきっとできないだろうと信じた相手は二度寝たのち結局交際には至らず現在は音信不通なのだから、人生というのは何が起こるか分からない。
私はその人の声と匂いがひどく好きだった。思えばずるい人だったし、私の好意を利用してもいたのであろうその人のことが、それでも私はせいいっぱい好きだった。
今でも時おりその話し方が耳に蘇るような、抱きすくめた首の温かい芳香が鼻に満たされるような気がする。そんな気がするだけで実際は何もかもすでに忘れているのかもしれない。その人はただ私の心に甘い感傷を引き起こすために記憶の中で都合の良い役割を付与されただけの、哀れな被害者だったのかもしれない。だが、私はその人を真実狂おしいほどに愛したのではなかったか? そんな自問はすでに無意味だった。記録されなかった過去は都合よく、あるいは悪く書き換えられ、現実を捻じ曲げて夢の世界の出来事のように断片だけが蓄積されていく。本当のことなど知りようがないし、その必要もない。
案外私が年老いた時には、さっさと切りたい贈り物の腐れ縁すら美しい友情として記憶されているのかもしれない。
家の最寄り駅に着く頃には、沈みかけだった夕日はすっかりその姿を消していた。こうなるともう次の夜明けまで、時間の区別などつけようもない。朝まだ薄暗いうちに家を出て帰る頃にはこの通りなのだから、世界は永遠に夜の中にあるのではないかという錯覚さえ起きてしまう。
私は真夜中に生まれた。だから夜の静かな暗さに安心するのかもしれない。もっと言うとその日は日曜日だった。だから休むのが好きなのだろう。土曜日もあと半日分の仕事や学業が残されていたあの時代、唯一の安息日が始まる真夜中の空気はきっと特別なきらめきを持っていたはずだ。
そんなことを言っていられるのは、私が今住んでいる街が夜でもそれなりに活気のある場所だからだろう。
十八までを過ごした地元は夕方の六時にもなると真っ暗になる。等間隔に並んだ電柱に申し訳程度につけられた蛍光灯は羽虫を集めるのがせいぜいでここが密林の奥深くではないことを最低限保証するに過ぎず、部活で帰りが遅くなった時などはひと気もなく同じような景色が続くカーブした一本道を一晩中歩いても家まで辿り着けないような気がした。さらに帰路には一台の公衆電話ボックスが設置されており、これがまた暗闇の中に浮かび上がってなんとも不気味なのである。
都会のねずみが言う夜と田舎のねずみが思う夜はきっと全くの別物で、この二匹が会話をしたならそれはすれ違いコントのような滑稽さを産むに違いない。
そんな故郷の暗闇に比べると今住む場所は真夜中でも明るく人の声が絶えないが、それでもしんと静まり返る夜というのに時おり遭遇する。今日がその日だったようで、ただでさえ寄り道で帰りが遅くなって閑散としている上、アパート近くのバーの定休日が重なっているらしく住宅街には一人の人間も存在しないような沈黙が満ちていた。
アスファルトに自分のヒールの音だけがこつこつと響くのがなんとも不安で、人通りの絶えた道を早足で通りすぎるだけでは心もとない。
それで私はいつも夜の静かな道を歩く時、あえて大きく背中を丸めて思い切り左右に振れながら大股で歩くようにしている。幼い頃祖母に「夜道は危ないから一人の時は櫛を口に咥えて歩くのよ。そうしたら口裂け女だと思われて悪い奴も寄って来ないから」と教えられた時、子供心にそれで悪い奴が寄って来ないのはおそらく口裂け女だと思われるからではないのではなかろうかと思ったものだが、では何だと思われるのだ、といった辺りの詳細な説明は割愛する。
歩きながら、帰ってからやりたいことをあれこれ考える。考えるだけで満足して、明日こそは湯船に浸かりたいと思いながらシャワーだけで済ませる。明日こそ、明日こそと、眠った結果次の日がやってくる常識を信じて疑わない私はいつまでも先延ばしという名の現実逃避を続けている。
こんなに浴槽の使用頻度が低いのなら、もういっそ水槽として魚でも飼った方がよほど有効な利用法ではないかという気さえしてくる。
入浴以外での浴槽の使用と言えば、子供の頃は風呂釜いっぱいのプリンやらゼリーやらというのに憧れたものだ。学校のプールの水が全部サイダーになったらと空想したのも一度や二度ではない。熱めのお湯を入れてゼリーの素を注げば、その光景は簡単に再現ができる。大人になった私の経済力をもってすれば、この浴槽をゼリーで満たすことなど造作もないだろう。だが、それは結局想像に留まって私が実行にうつす事はない。そのことを自分自身が誰より分かっている。後始末のことを考えればとてもそんな暴挙に出る気は起きないし、だいいち浴槽で作った食品などを食べたいはずもない。
なぜといえば、私たちの前に時間は不可逆であり、その流れに逆らうすべなどない私は不本意ながらすでに大人になってしまったからだ。社会的動物としての規範を物心つく前から徹底的に教えられ、無意識の中にいくつもの信仰を練り込まれた結果の産物が私である。
もしもは禁物という呪いの言葉ばかりが前後の文脈を無視して肥えていき、ありもしない空想の中に遊ぶ自由をも今の私は夢の中くらいでしか持ち合わせていない。
耳に痛い目覚まし時計のアラーム音はせいぜいが七十デシベルほどであろうし、たかが定時起床で銅像は建たないし私の手足は二本ずつが生えるのみだ。寒さに両手をこすり合わせる瞬間が祈りの仕草のようで、とりあえず私はエアコンに向かってもう冷たい風は出さないでくださいと願った。祈る神を持たない私の右手と左手の出合いは、何かの意味を生むのだろうか。
自分のための買い物をする気力もないほど疲れ切って帰った日に食事を作る余裕などあるはずもなく、動けなくなる前にさっさとシャワーをあびた自分を褒め称えたいほどだ。
こんな日が来ることを見越して、冷凍庫にはいくつもの食品ストックがある。
適当な品を選び、これまた適当な皿に乗せて電子レンジに放り込む。
キャラクター化された熊の絵と“happy birthday”の文字がプリントされたその皿を、私はこの日に生まれたわけでもないのに使っている。一日のうちに刷り込まれた秩序への、これがささやかな反乱だ。
クリスマスツリーと門松が並んで飾られていたっていいし、その正月飾りがバレンタインまで片付けられずにあってもいいし、節分を忘れてしまっても社会はきっと当たり前に回る。
けれどもそれをしない積み重ねこそが社会であり、私はその海のように押し寄せる常識の中で静かに窒息していく。小さな息継ぎひとつのためにもがいてもがいてやっと浮かびあがった海上は、三日月の浮かぶ日曜日の未明がいい。水平線の向こうまで寄せては返す紺青の秩序という波の中で、私一人がその美しい風景の破壊者であることを私以外の誰も知らない。そんな夜はきっと素敵だ。
電子レンジから取り出したハンバーグ定食は、まるで今厨房で作られた出来立てのようだ。はるか昔の祖先がこれを見たら、喜びと興奮でどうにかなってしまうかもしれない。衣食住が完全に満たされたこの世界は、その目にはあるいは死後の楽園と映るだろう。
味の方もなかなかのもので、冷凍保存技術の躍進には目を見張るばかりだ。それを思うと、人間のコールドスリープというSFの世界も遠からず訪れるような気がする。
実際すでにそうしたサービスは提供されているらしい。眠って起きたら百年後とは、なんとも夢のある話だ。いつか私が病にかかり、現代の医療ではとうてい治せはしないと匙を投げられた際はぜひ検討したい。だがコールドスリープについて考えるたび、凍らせて一旦生命活動を停止させるまではいいとして、それを生きたまま安全に解凍する方法などあるのだろうかという疑問にたどり着く。
一度凍らせてから解凍させることで、致命的に損われる機能がありはしないか。そしてそれは人間の身体上の性質なのか、技術の問題であるのか。私が未来人なら、個人を永久に損わせた大悪人として歴史に残るかもしれないのに、わざわざ会ったこともない人間のために生命の解凍技術を研究しようとは思わない。
そうして凍った私たちは永遠に捨て置かれるのだろう。それは生者か、それとも死者か。その答えさえ論じられないままで。
いつか私たちの体を機械で冷やす維持費も惜しく、氷のように冷たい海底に沈没船のように投げ込まれるのかもしれない。法律上はまだ生きているとして、最低限の生命装置だけは維持されながら。
そうなったら愉快なことである。
新医療の恩恵にあずかることができなかった時代の人々が、未来への希望ごと凍りついたままで遥かな海面を見上げ続ける。
古い信仰に縋った我々は、永劫海の中で眠るのだろう。かの神の子がいまだ生まれぬ世を生き抜いた不運なる人たちが往くのと似たような場所を、私もゆらゆらと漂うのだ。
揺れる水面を想像するうちに眠気が押し寄せてくるが、数日間手をつけられぬまま嵩を増していた洗濯物と目が合ってしまった。今初めてその存在に気付いたようにちらと見て、ようやくそれらを畳み始める。
思えばほんの四、五日前にも私はこれと全く同じ大義で億劫な仕事をやり遂げたのだ。それなのに今またこうして、眠気をおして手を動かしている。数日後にはきっとまた洗濯物の山ができて、同じようにうつらうつらと舟を漕ぎながら畳んでいく。
長い宇宙の歴史の中のほんの数瞬を生きるのみの私は、あと何度この演繹を繰り返すのだろう。できるだけ少なく、けれどできるだけ長く、私はこの営みを繰り返していたいと思う。
ようやく畳み終えた布たちを所定の場所にしまい、朝の温もりが嘘のように冷め切った布団に潜り込む。
人は一日のうちに数万回もの思考を巡らせるという。今日得たつもりになった学びも、辿り着いたはずだった答えも、いく日かが経てば——あるいは明日にはすでに——埃を被った過去に成り果てるだろう。私が住むこの星にしてからがそうなのだ、このことを一体誰が責められよう? 終わりなき世はめでたかろうが、寿命を迎えた個人の命は容赦なく終わっていく。私の心臓が止まるその瞬間にも、きっと新たな命は生まれるだろう。私と永遠に出会わない人たち、宇宙の歴史の中のほんの瞬きの間、けれど私たちにとっては極めて長いその時間、この場所で息をする人たち。有史以前から途方もないスケールで繰り返されてきた日常。
自分の終わりが全ての終わりと重ならない事。これが社会的人間にとっての幸福であり、人間がせっせと秩序を組み立ててきたことの意味なのかもしれない。
夢うつつに目を閉じる。
明日もきっと私は目を覚ますだろう。次の日も、その次の日も。いつか私の全てが終わる瞬間まで、私はそのことになどまるで気が付かないふりをして生きていく。
親愛なるあなたへ。
これからも増え続ける人間が、私やあなたに代わって終わらない世を守り続けるでしょう。それはひどくめでたいことだとは思いませんか? 後のことはあの人たちに任せるとして、あとは私たち、せいぜい息をしている間、意味と無意味の間をくらげのように生きていましょう。
顔も名前も知らないあなたの幸せを、私はこの場所から祈っています。実際に会ってもなお祈ることができるかは知りません。
ただ明日も同じ日々が続きますように、どうぞご自愛ください。
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