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剣聖の憂鬱
※
人口密度に反比例するかのように、静まり切った場内。次の一本で勝負は決するだろう。大島秀一郎は一気に間合いを詰めた。こちらが打ち込んでくるとにらんだ相手選手は、その上段に構えた竹刀を、片手で真っすぐに振り下ろした。しかし、相手の竹刀がこちらの面を直撃するよりも早く、大島は竹刀を真っすぐに突き出していた。喉を貫くかのように、竹刀は上段選手の突き垂を直撃した。攻撃に転じていた上段選手は、竹刀を捌く暇もなく、喉元から押さえ込まれる形で尻もちをついた。
「突きあり!」
上段の選手が倒れ込んだ瞬間、三人の審判たちが赤い旗を同時に揚げた。勝負あった。
万雷の拍手の中、静かに相手選手と一礼を交わした大島は、無表情で表彰式に臨んだ。
毎年一一月三日、文化の日に開催される全日本剣道選手権大会。日本一の剣士を決めると言っても過言ではないこの大会で、優勝を飾るのは大島にとって、これで四度目だ。
「剣聖」、「現代の侍」などともてはやされる大島だが、その心にもはや満たされるものはなかった。
何だろう。この虚しさは……
この優勝トロフィーを手にするのも、四度目。だが、以前のように喜びで胸が熱くなるような思いは、不思議と込み上げてこない。
「大島選手、優勝おめでとうございます。いかがですか?四度目の全日本を制して」
「ありがとうございます。自分でも信じられません。まさか、また優勝を手にするとは……」
カメラのフラッシュを浴び、新聞社や各メディアが、ここぞとばかりにマイクを向けてきた。しかし、せっかくのインタビューにも、ひきつった笑顔で、心のこもっていない回答をしてしまう。早くこの会場から立ち去りたいが、全日本を制した男には、それを許してはくれない。
「来年も、やはり優勝を狙われるのでしょうか?」
某剣道雑誌の記者の質問に、大島は固まった。来年は試合どころか、自分は竹刀を握っていないのではないだろうか。不安でも、限界でもない全く別の感情が、大島の未来を暗くさせていた。
「勝負はしてみないことには分かりません。今後も謙虚に励みたいです」
剣道家として、当たり障りのない回答をした。武道を嗜む者は、とりあえず「謙虚」という言葉や、態度を示せば体裁を取り繕える。
俺の剣士、いや戦士としての血は、最早冷めてしまったのかもしれない。
※
「やつだ!」
竹ノ内晃司は、カウンターを叩いて立ち上がった。食べかけの炒飯と、スープが衝撃で少し飛び散り、店主のオヤジが怪訝な顔をしたが、そんなことは気にも留めない。南千住の、安さを売りにした古ぼけた中華料理屋の店内のテレビには、全日本剣道選手権大会がNHKのチャンネルで映し出さている。
たまたまテレビに映っていたため、観ていた剣道の試合だった。だが、無表情で表彰を受ける青年、彼が先ほど決勝で放った「突き」、あれこそ竹ノ内が探し求めていたものだ。確か大島秀一郎といった。所謂イケメンと呼ばれる部類の顔に、引き締まった長身、それに二六歳という若さ。それだけではない、竹ノ内が惹かれたのは、その目だ。
どこか冷めて、虚しささえ醸し出している目。だが、長年強者を見てきた竹ノ内は、瞬時に見抜いた。この男は、戦いを求めている。血沸き肉躍り、身を焦がすような熱き戦いを。おそらく、大島秀一郎の求める戦いは、剣道の世界では収まりきらないはずだ。
「やつだ……やつしかいない!」
竹ノ内は、狭苦しく、酸っぱい匂いのする中華料理店の中で、震える拳を握りしめた。
この男が日本の、いや世界のプロレスを変えてくれるだろう。
※
「優勝おめでとう」
「ありがとう」
チンとワイングラスを当て合い、グラスの中身を一気に呷った。目の前では、付き合い始めて今年で二年目になる彼女、安藤玲が楽しそうにメニューを眺めている。大島の全日本四連覇を祝して、恵比寿にあるイタリアンレストランを予約してくれていたのだ。彼女は現在、メガバンクの本店に勤務しており、大島とは仕事を通して出会い、恋人同士となった。
小柄だが、均整の取れたスタイルと、目鼻立ちの整った顔は、美人といって差し支えないだろう。艶々と手入れの行き届いた黒髪と、その柔らかな性格は、彼女の育ちの良さを表している。大島は、この誰もが羨ましがるであろう理想の女性に、不満を抱いたことなど一度もない。それに彼女は、俺を心から愛してくれている。
「なんだか元気ないね。大丈夫?」
「ここの所、仕事と稽古の毎日だからね。少しは」
「大変だもんね……仕事もして、剣道もして。ごめんね、無理に誘って」
「そんなことない。嬉しいよ、玲に祝ってもらって」
申し訳なさそうな顔をする恋人に微笑んで、前菜のシーザーサラダを口にする。大島は大学を卒業後、日本でも有数の総合商社に入社した。会社はスポーツ活動にも力を入れており、大島は剣道部に所属している。今の会社に内定を貰えたのも、大島が大学生の頃から名の知れた剣道選手だったからだと思っている。
先日優勝した全日本剣道選手権は、出場者の多くを警察官が占めている。大島のような一般企業の者もいるにはいるが、決勝に進むのは警察官、それも警視庁や神奈川県警の選手が多い。商社マンの大島が、四度の優勝を飾るのは異例といっていい。
確かに彼女の言う通り、疲れてないといえば嘘になる。会社の剣道部の稽古は、日曜日以外は、一八時から二一時半まで行われている。無論、残業や部署によっては稽古に遅れたり、参加できない日もあるが、大島は可能な限り毎日稽古に参加している。だが、長年剣道を続けていても、仕事を終えてからの稽古は、体力的になかなか厳しいものがあるのも確かだ。
さすがに、今日は彼女との約束があったため、稽古は休ませてもらった。
「でもほんとすごいよね。仕事もきっちりこなしながら、毎日剣道もして。それでいて、全国連覇してるんだから」
「玲の応援や、支えがあってこそだよ。俺一人では優勝なんてできなかった」
赤ワインのソースがかかったステーキを口に運びながら、安藤は大島の活躍を褒め称えた。彼女は恋人でありながら、剣道選手としての大島の理解者でもある。先日の全日本選手権も、彼女は会場に足を運んで、大島の戦いを終始見守ってくれていた。
「そんなこと言って、私は何もしてないよ」
ワインに酔ったのか安藤は、頬を少し赤くしてナプキンで口元を拭いた。どんなに仕事が忙しくても、どんなに稽古に没頭しても、彼女の口から不満が出たことは一度もない。普通の女性ならば、剣道ばかり優先している彼氏に、いい顔はしないだろう。したがって、安藤の支えあっての優勝だと、大島は半ば本気で思っている。
「ごめんな……なかなか、君との時間を作ってあげられなくて。とりあえず、大会は終わったから、稽古の時間も調整できると思うよ」
「私のことは気にしないで。会うだけなら、秀一郎が稽古終わった後でも会えるし。それに、私は剣道をしているあなたが好きだし」
申し訳なく肩を落とす俺の手を、彼女は優しく握った。本当によくできた彼女だ。俺には不相応すぎるほど。
だからこそ胸が痛む。剣道に対する情熱が、日に日に薄れていることを彼女が知ったら、どんな顔をするだろう。初めは気のせいだと思った。だが、喪失感に似たこの感情は、どんどんと俺の中で大きく育っている。極めつけは、先日の全日本選手権。俺は四度の栄冠を手にしても、喜びのかけらも湧き上がってこなかった。
「ありがとう。そう言ってもらえると助かるよ。応援してくれる玲のためにも、さらに稽古に励まないといけないな」
俺を愛してくれるこの女性に、俺の本心を一ミリも見せてはいけまいと、気持ちとは真逆の笑顔を作った。恋人の期待を裏切るようで、益々胸が痛んだ。
「また、あなたったら、そんなこと言って……でも、嬉しいわ」
「もう一度、乾杯しよう」
彼女のグラスにシャンパンを注いでやり、もう一度グラスを重ねて、音を鳴らした。
そう、俺は剣道を辞めるわけにはいかない。彼女のためにも。
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