漢・竹ノ内晃司が行く

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漢・竹ノ内晃司が行く

 喉元に向けられた剣先同士は、牽制し合うかのように、互いの間合いに詰めては引いてを繰り返している。相手の手元が動いたと同時に、大島も前に大きく踏み込んだ。竹刀と竹刀がぶつかり合う乾いた音が、体育館に響いた。竹刀同士が上空で絡んだことにより、お互い面を狙っていた軌道が逸らされ、身体をぶつけ合い、勝負は鍔迫り合いへと持ち込まれた。  こちらの態勢を崩そうと、相手は竹刀を揺すり、肩をぶつけてくるが、その程度では大島の鍔元からどっしりと握られた竹刀と、その構えは揺るがない。面越しに睨み合うこと数字十秒、額から垂れた汗が染みたのか、相手は一瞬片目を瞑ったが、その隙を大島は見逃さなかった。へその位置で受け止め合っていた竹刀の鍔元を一気に押し込み、その反動を利用して相手の両腕を押し上げた。がら空きになった胴に、大島は左側から斬り下げるように竹刀を打ち下ろした。  逆胴を決められた相手は、観念したかのように頭を静かに下げた。それに応ずるように大島も、相手に一礼し構えを解いた。   「いやあ、やっぱ大島さんには適わないっすわ」  手拭いで顔と頭をごしごしと拭きながら、逆胴を食らった寺本章介は、運動後の程よい疲れを含ませた笑顔を向けた。その隣で、大島も面を外し、同じように手拭いで額の汗を拭った。 「寺本こそ、いい面を打つようになったじゃないか。それに、技の一つ一つのキレも増している。驚くほどの成長だよ」  寺本は部署こそ違うが、大島の一年後輩で、同じ剣道部だ。大学時代でも剣道をやっていたらしく、大島はその頃からの憧れだったらしい。だからか、地稽古の時は真っ先に大島の前に走ってきて、手合わせを願ってくる。洗練されたものとは真逆で、寺本の剣道スタイルは小細工なしに、大きく振りかぶって勢いよく踏み込んでくるものだ。「大人の剣道」をしろと、よく範士からは注意されているが、寺本のその思い切りのいい剣道を、大島は気に入っており、本人には今のスタイルを大切にするように指導している。 「全国覇者の大島さんにそう言われると、不思議とやる気が出ますわ」 「よく言うわ」  はにかみながら頭をかいて笑う寺本に、大島も苦笑した。どの競技にも共通することだが、選手には褒められて伸びるタイプと、叱られて伸びるタイプの二通りいる。寺本は断然前者で、ガタイのいい見てくれとは裏腹に、叱られると伸び悩むタイプだ。彼と一緒に仕事をしたことはないが、おそらく業務においても褒められて成長していく人間だろう。 大島自身、剣道にしても、仕事にしても、その者の長所を見極め、それを伸ばしてやりたいと思っている。本人が光るものを持っているならば、それを磨かない手はないだろう。 「大島、ちょっといいか」 「あ、はい」  あぐらで、スポーツドリンクを飲みながら寺本と談笑していると、監督の宮崎に呼ばれた。上座に腕を組んで正座している宮崎の元に小走りで向い、一礼して同じ正座の姿勢で向き合った。監督の宮崎は、元々は大島らの会社の管理職だったが、定年退職した現在は剣道部の監督として、大島達剣道部員の指導に当たっている。七段という高段者の上、剣道連盟から教士の称号も与えられており、その肩書に恥じない技量と、指導力を持っている人だ。剣道を続けて長い大島も、宮崎の前に立つと、やはり緊張を覚える。  お互い正座で向かい合い、無言の時間が流れた。宮崎は滅多に笑うことはなく、稽古中、大島は彼の笑顔を見たことはない。還暦を迎えた今、なお引き締まった身体と表情の備わった宮崎の目は、まるで大島の心中を射抜こうかのように鋭い。 「とりあえずは優勝おめでとう」  沈黙を破ったのは、宮崎の口から出た祝福の言葉だった。だが、その顔に笑顔はなく、厳格な剣道範士そのものだった。 「ありがとうございます」  一応は礼を言うが、大島の口元も笑ってはいない。武道という競技で培われた「空気を読む」という能力が、大島の表情筋にストップをかけている。大島の返答に軽く頷いた宮崎だが、依然として厳しい表情をしている。監督の宮崎から呼ばれた以上、大島から口を開くことはない。 「どうだった?」  背筋を伸ばし、腕を組んでだ姿勢の宮崎が、俺に聞きたいのは試合の感想だろう。感想といっても、宮崎の前では楽しかったや、緊張しましたなどの小学生レベルの回答では、済まされないことを大島はよく知っている。 「さすがに全日本に出場するほどの選手、やはり一筋縄ではいきませんでした」  全日本選手権に出場する選手は、剣道界ではトップクラスの強者ばかりだ。大島をしても、余裕で切り抜けられるほど甘くはなかった。しかし、際どい場面はあっても、今大会で大島は一本も取られていない。 「それはそうだろうな。それで、何か感じるものはあったか?」  もっと具体的に言えと言わんばかりに、宮崎の口調は厳しい。正直、一番聞かれたくなくなかったことだ。何も感じなかった。あったとすれば、虚しさだけだ。 「言葉にはできませんが、ありました」 「ありませんでした」と言っているようなものだ。だが、それを正直に言えば、剣道に人生を捧げてきたといって過言ではない宮崎は、どんな顔をするだろうか。考えただけだでも背筋が凍る。  曖昧な大島の回答に、宮崎は無言でその射抜くような視線を送っていたが、やがて静かに頷いた。 「そうか……なら、よかった」 「はい」  一礼して、大島は大島の前から立ち去った。何も言わなかったが、宮崎は大島の心を見抜いている。そう感じた。  相変わらず腕を組んで、厳しい表情の宮崎だったが、大島の背中を見つめるその目は、何かを惜しむかのように寂しげだった。      ※  本日出社して、三杯目のコーヒーだ。社員が自由に飲めるように設置されてあるサーバーで、マグカップにコーヒーを注いで、大島は自分のデスクに戻った。パソコンで自分宛てに送られてきたメールをチェックしつつ、エクセルに数字を打ち込んでいく。今日中に、取引先に依頼された見積書を、三件ほど完成させなくてはいけない。  入社して四年目、国内でも指折りの総合商社に勤めている大島は、今年の四月の人事異動で、本社への転属となった。支店での営業実績や、勤務態度が評価されての異動らしいが、サラリーマンとしては間違いなく出世の道を歩んでいるといえるだろう。しかし、正直椅子に座って、パソコン画面に文字や数字を打ち込むのは、自分の性に合っていない気がする。  椅子に座ったまま伸びをし、コーヒーを一口啜った。画面に打ち込んだ数字に間違えはないかと、スクロールさせながら凝視していると、デスクの端の固定電話が鳴った。 「はい、大島です」  片手でマウスを操作しながら、片耳に受話器を当てた。 「あ、受付の中島です。大島さんに、御用があるという方がいらしてまして……」  緊張した電話越しの相手は、受付嬢の中島智香だ。今年の春入社した新卒で、笑顔が魅力的な、いかにも大企業の受付にいそうな可愛らしい娘だ。まだ、慣れていないのか、内線での声も緊張が入り混じっている。だが大島は、真面目で礼儀正しい彼女のことを、内心好ましく思っている。  しかし、今日は自分に来客のアポイントはなかったはずだ。スケジュール帳も兼ねた置き型カレンダーに目をやったが、今日は空白になっている。 「俺に?なんて方」 「その、竹ノ内様とおっしゃる方でして……大島さんを、お願いしますと……」 「竹ノ内さん?知らないなあ……」  取引先や、顧客の顔や名前を思い浮かべたが、大島が担当した中で竹ノ内という名の人物はいなかったはずだ。 「ど、どうしましょうか……?」  電話越しにも、中島が受付で困惑した様子が伝わってきた。さすがにこれ以上、中島一人に応対させるのは可哀そうだ。作成しかけていた見積書のエクセルファイルを、上書き保存して閉じた。 「オッケー、俺が話すよ。とりあえず、その竹ノ内さんという方は、応接室にご案内しといて」  ジャケットを羽織り、デスクの引き出しから名刺ケースを取り出して、エレベーターへと向かった。 「お待たせ致しました」  ノックして応接室のドアを開けると、太い腕を組んだTシャツ姿の男が、瞑想をしているかのように目を瞑って、その大きな身体を椅子に預けていた。一見して、取引先の人間でないことが判断できる。  まず、その見た目だ。年齢は四〇代くらいであろうか、綺麗に焼けた肌と、サラリーマンでは絶対に伸ばせない長髪を、オールバックにして括っている。何よりも、その身体つきだ。組んでいる両腕は、肩から前腕にかけて一般の成人男性の二倍の太さはあり、胸板もTシャツがはち切れんばかりの厚さだ。閉じた目の上にある凛々しい眉と、真一文字に結んだ口元は、精悍な男らしさを醸し出している。ただのガタイの良い男などの生易しい表現では形容しきれない雰囲気を、目の前で静かに座している男は纏っている。 「あ、あの……」  喝ッ  バトル漫画で稀に見受けられる文字だが、本当にそんな音がしたような気がした。目の前で目を閉じている大男に、恐る恐る声をかけた瞬間に、その目が見開かれた。大男はそのぎらついた目を、大島に向けたかと思うと、ニッと真っ白い歯を見せて、その目を無邪気な少年のように変えた。 「待っていたよ。あんたが大島さんか」 「は、はい。北村商事の大島秀一郎と申します」  仁王像のように腕を組んで座していた大男だったが、大島が入ってきたと分かると、嬉しそうに椅子から立ち上がった。正体不明の来客に内心戸惑いつつ、大島は名刺を差し出した。男はその大きな手で大島の名刺を受け取ると、ポケットから使い込まれたブライドルレザーの名刺入れを取り出した。 「俺は竹ノ内ってもんだ」 「竹ノ内様ですね」  魂プロレス常務取締役 竹ノ内晃司  受け取った男の名刺には太めの明朝体で、こう印刷されていた。  魂のプロレス? 「『魂』と書いて、『スピリット』と呼ぶんだ。文字通りプロレス団体だ。聞いたことはないか?」 「いや……申し訳ございません。初めて耳にする会社です」  満面の笑みで会社名を口にした竹ノ内には申し訳ないが、大島は知らない会社だった。おそらく、うちの会社との取引もないだろう。男は大きく頷いた。 「まあ、知らなくて不思議ではない。日本にプロレス団体は数多くある。新日本や全日本、ドラゴンゲートにノア等挙げたらきりがないが、うちもそれらと同じで、プロレスを興行として生業にしている会社だ」 「なるほど、左様ですか」  会社名からして、大方想像はつく。確かに目の前の竹ノ内は、プロレスラーと言われても容易に頷ける体格をしている。しかし名刺には常務取締役とあり、竹ノ内は会社の役員であり、プロレスラーではないのか。  しかしながら、大島の勤める商社は、主に石油関連の商材を扱っている。プロレス団体に、どのような需要があるのか想像がつかない。 「それで本日は弊社に、私にどういったご用件で?」  大島が一番聞きたかったのはそこだ。なぜプロレス団体の竹ノ内がうちの会社に来訪して、それもなぜ大島を指名したのか。 大島の質問に、竹ノ内はその凛々しい眉を寄せて、口元を引き締めた。無言で力強い眼光を大島に向けていたが、意を決したように男は口を開いた。 「単刀直入に言おう。プロレスラーになってくれ」  すっかり消え去ってしまったはずの蠟燭に、僅かに残っていた灯が再び燃えようとしている。      ※  俺の聞き間違えだろうか。目の前の大男は今、俺にプロレスラーになってくれと言わなかったか。聞き間違えだろう。俺はそこら辺にいるただのサラリーマンだ。  だが、俺の想像を否定するかのように、竹ノ内はその巨体を曲げて頭を下げている。 「竹ノ内さん。頭を上げてください。一体どういうことですか?」  大島は竹ノ内の両肩に触れて、慌てて頭を起こさせた。顔を上げた竹ノ内の目は真剣そのもので、どこか救いを求めているかのようにも見える。 「そのままの意味だ。大島さん、プロレスラーになってほしい。そして、リングに上がってほしい」  竹ノ内は椅子から立ち上がり、今度は大島の両肩を掴んだ。両肩にとてつもない力が籠められ、大島は顔をしかめた。やはり、この男もプロレスラーだったのではないか。 「お、落ち着いてください。まずは座って」  大島も長年剣道の稽古で、それなりの筋力を培っている。竹ノ内と肩を組み合う形で、彼を一度椅子に静めるように座らせた。椅子に居直った竹ノ内の目が、一瞬光ったような気がした。 「一体何ですか?いきなり……私にプロレスラーになってくれだなんて」  椅子に座った竹ノ内は、荒い呼吸を整えるように水を一口飲んだ。 「テレビで観たよ。あんた剣道家で、それも全国四連覇したそうじゃないか」  剣道の話題に触れられ、大島は表情を硬くした。やはり先日のNHKの中継を見て、この男は大島の会社を訪れたのか。先日の全日本選手権大会に、大島は個人ではなく北村商事の剣道部の選手として出場している。したがって、ネットや新聞では、大島が商社マンであることを隠すことなく公表している。それに大島が剣道界で活躍することで、会社は企業イメージの底上げも狙っているようだ。 「大したもんだよ。その若さで、全国連覇を四度も成し遂げるなんて。俺は剣道のことはよく分からんが、並大抵のことじゃないってのは分かる。プロレスラーだって、四度もベルトを防衛するなんて、なかなか難しい」  竹ノ内は大島の身体を値踏みするかのように見ながら、大島の優勝を称えた。竹ノ内に優勝を褒められて、大島はほんの少し表情を緩めた。竹ノ内の声には、敬意を払ったものが含まれているように聞こえたからだ。剣道とプロレス、全く異なる競技だが、強者と戦うという点においては違わないだろう。同じ戦う者として、竹ノ内は強者に対する礼儀を知っているようだ。 「ありがとうございます。ただ、運が良かっただけです」 「運が良かったか……謙虚な選手ほどよく使う言葉だな」  太い腕を組みながら力なく笑う竹ノ内の目は、大島を憐れむかのようだ。竹ノ内の視線に、大島は背中に嫌な汗を覚えた。この大男の口から、次にどんな言葉が出るのか。大島は身構える。 「大島さん、あんた、もう剣道をやりたくないんじゃないのか?」  竹ノ内の両目が、修羅のごとく見開かれた。負けじと大島も、竹ノ内を睨みつける。  大島が今一番聞きたくなかった言葉を、この男は堂々と吐いてくれた。大島の腹の中で、ふつふつと怒りにも、虚しさにも似た感情が湧いてきたが、それは竹ノ内に対してではない。ただ、誰に対してでもなく、やり場のない虚しさは大島の心を錆びつかせた。  出会ってたった数十分のプロレスラーだか、プロレス団体の取締役だかのこの男は、大島の腹の底にある、その感情を見抜いたのだ。 「やりたくないという言葉は適切ではないな。あんたは、もはや剣道では満たされないのだろうよ。選手として、一人の戦士として……その戦いを求める熱き心は」  全てを悟ったかのような神妙な顔で、竹ノ内は静かに、しかしよく通る声で大島に語りかけた。竹ノ内には見えないが、大島はテーブルの下で拳を握りしめた。剣道で竹刀を握る時は、右手に力が入らないよう気を配るが、今は剣道ではない。許されるならば、この両腕の拳をテーブルに叩きつけたい。そうでもしなければ、この胸の虚しさ、いや最高の戦いに出会えない悲しさが、今度は涙となって両目から溢れてきそうだ。  震える膝の上で拳を握りしめながら俯く大島を、竹ノ内は優しく、愛おしそうに見つめていた。その目は、本当の強さを知る男のものだ。 「あなたに……あなたに何が分かるってんだ。俺の……」  高鳴る胸の鼓動を確かに感じながら、大島は何とか声を絞り出した。 「分からんさ。実際のあんたの考えてることなんざ。だが、俺はプロレスラーとして、一人の戦士として、大島秀一郎の心の叫びを聞いたような気がするんだ」  顔を上げた大島の目は真っ赤に充血していた。その大島の前に立ちはだかる男は、やはりプロレスラーだったようだ。だが、そんなことは俺にとってどうでもいい。 「何もあんたをおちょくりに、わざわざ来たわけじゃない。俺だって忙しい。ただ、俺は惹かれたんだ。テレビで観たあんたの試合、実に美しかった。剣道を知らない俺でも、あんたの強さは十分に理解できたよ。あんたのような男が、プロレスのリングで戦ってくれたら、どれほど素晴らしい試合をしてくれるだろう。どれほどの人たちに勇気を与えてくれるだろう。想像しただけで、俺は夜も眠れない。そして、テレビで観たあんたの目は、悲しそうだった……だから、俺は今日ここに、あんたに会いに来たんだ」  気づけば竹ノ内の目からは、涙が流れていた。屈強な身体には似つかわしくない、細長い涙だ。純粋なのだ。この竹ノ内というプロレスラーは、大島秀一郎同様に。 「な、ならばプロレスラーになれば……俺の求める戦いがあるんですか?」  はち切れそうな思いを胸に、大島は竹ノ内に求めた。今にも泣き出しそうな大島を竹ノ内は見据え、やがて静かに首を縦に振った。その瞬間に、大島は肩を落とした。 「だが、そんな生ぬるい世界ではない。いかに剣道の世界を極めたあんたでも、そう簡単に頂点は見えてこないだろう。それだけの猛者たちが君臨する世界だ、プロレスは。だが、俺は信じている。大島さん、あんたなら最高の戦いを見せてくれると。あんたなら、プロレスを変えてくれると」  立ち上がった男は、力なく項垂れる大島の両肩を優しく掴んだ。 「会えて本当に嬉しかったよ、大島さん。今日はいきなりですまなかった。もし、あんたにその気があるのなら、渡した名刺に連絡してくれ。電話番号は書いておいた。じゃあ、元気でな」  絶対に来いとは言わなかった。竹ノ内は大島の右肩をポンと叩いて、その巨体を揺らしながら応接室を出て行った。  一人応接室に取り残された大島は、しばらく部屋の天井を虚ろな目で見つめていたが、やがて腰を上げた。防音使用でひんやりとした壁に、その拳を叩きつけた。ぼこんと、静かな音が空しく耳にこだまする。壁からずり落ちるように、大島は床に膝を落とした。  俺は、俺は……  ダムが決壊したかのように、胸にしまい込んでいたものがあふれ出した。大島は泣いた。声を殺して、ただ一人泣き続けた。その涙でも、男の熱き炎は消せなかった。      ※  竹ノ内はJR常磐線勝田行の車両に、その巨体を落ち着けた。平日の昼前ということもあり、車両内はがらんとしており、遠慮気味に身体を縮めて座らなくてもいい。先ほど尋ねた大島の商社のビルは丸の内のオフィス街のど真ん中にあり、そこにTシャツ一枚の格好で乗り込むのは、やはり気が引けた。  大島秀一郎、やはり俺が思っていた通りの男だった。あの男は、戦いの中でしか生きられない人種だ。大島は気づいていないかもしれないが、竹ノ内は彼にプロレスラーとしての資質があるかテストしていた。 「プロレスラーになってほしい」と頼んだ時、竹ノ内は大島の両肩を掴んだ。それも渾身の力で。それに対して、大島は怯むどころか、竹ノ内の肩を同じように掴んで、押し返してきた。  ロックアップ。レスラーが試合の序盤、リング上でがっちりと組み合うことだ。竹ノ内は、あのリングの半分にも満たない小さな応接室で、大島にロックアップを仕掛けたのだ。大島のロックアップは力が入り過ぎず、かつ隙を見せないものだった。あの状態からなら、固めるなり、持ち上げるなり、様々な攻撃に転じることができるだろう。  竹ノ内は震えた。大島の思わぬプロレスセンスに触れることができて。  竹ノ内は天井で揺れる無数のつり革を眺めながら、大島の顔を思い浮かべた。全体的にシュッとした印象を受けるが、身体のどこからか鋭利な刃物のような、まるで孤独な修行を続ける剣豪のような覇気を発していた。あれはおそらく、剣道で培ったものではなく、あの男が生まれながらに兼ね備えていたものだろう。  もっと早くあんな男に出会えたら。竹ノ内は、かつての自分に思いを馳せた。  ストロング竹ノ内。  現役時代の竹ノ内のリングネームだ。大学でレスリングを経験した竹ノ内は、卒業後に魂プロレスの門を叩いた。その大柄な体を活かしたストロングスタイルのプロレスで、竹ノ内は幾度となくベルトを腰に巻いた。新日本や全日本などの、他団体のリングにも上がった。自分はリングの上でこそ輝ける、リングの上でこそ存在価値を見出せる。竹ノ内は、プロレスラーとしての自分に誇りを持っていた。何より、自分のプロレスを観た人たちが笑顔になってくれて、勇気を与えていることに、この上ない喜びを感じた。  しかし、デビューして十三年目、プロレスラーとして絶頂期だった竹ノ内であったが、リングを降りざる得ないことになった。試合中、竹ノ内はリングのコーナーから飛び技を放ったが、相手レスラーがそれを交わしたことにより、着地に失敗した。当時、ヘビー級として百キロ近い重量の竹ノ内の飛び技は、自身の膝にダイレクトに衝撃を与えた。下半身に走った激痛に、屈強なレスラーとはいえ試合を続行することはできず、そのまま病院に搬送された。  左足の骨折並びに、膝の靭帯損傷というプロレスラーとして、致命的な怪我をした。当然、リングに上がって試合などできる状態ではなく、欠場してリハビリに専念するしかなかった。ただひたすら、再びリングに上れることを願って。  しかし、その願いは叶わなかった。  以来、竹ノ内は指導者や、裏方としての道を歩むこととなったが、悲嘆はしなかった。裏方の業務には、裏方としてのやりがいを感じ、新人や練習生たちの指導も実に楽しいものだった。自分が育てた若者が、将来リングを湧かせると思ったら、指導にも熱が入った。  だが、心のどこかで、またリングの上で戦いたいという熱は残っていた。リングを降りて、十年が経とうとしているが、まだトレーニングや身体づくりは欠かしていない。そして何よりも、大島秀一郎という男に出会ってしまったことだ。  大島はプロレスラーではなく、世間的には剣道が強い一流商社マンといったところだ。だが、多くのプロレスラーと関わってきた竹ノ内は確信した。あの男は、プロレスラーになるために生まれてきたのだと。  竹ノ内は、現在進行形でリングを湧かせているプロレスラーたちの顔を思い浮かべた。新日本プロレスの棚橋弘至や内藤哲也、ドラゴンゲートのYAMATOやドラゴンキッド、プロレスリングノアの丸藤正道、あるいは世界のWWEで活躍する中邑真輔など、人気や実力を兼ね備えた日本人レスラーを挙げればきりがない。今日本でプロレスという文化が生き続けているのは、彼らがリング上で、毎日命懸けで戦ってくれているからだ。  だが、何かが違うのだ。その何かを、具体的に説明しろと言われたら、言葉に詰まる。だが、今を時めくプロレスラーたちですら持ちえない、その何かを大島秀一郎は持っている。いや、あの男しかもっていないのかもしれない。その何かは、プロレスのリングでのみ、目にする事ができない。  俺はあの男がリングに立つ姿を見てみたい。その思いだけで、今日は大島の元に殴りこんだのだ。 『まもなく南千住、南千住です。地下鉄日比谷線と、つくばエクスプレス線はお乗り換えです』  電車の絶妙な揺れが、竹ノ内の巨体を心地良い眠気に誘いかけたが、下車駅のアナウンスがそれを許さなかった。竹ノ内は腕を十字にクロスさせ、身体を伸ばしながら立ち上がった。静かに座っていた大男が、急にストレッチをして立ち上がったので、周りの乗客は竹ノ内を仰ぎ見た。  竹ノ内はそんな視線に臆することなく、上半身を捻りながらドアの前に立った。 『南千住、南千住です』 「うしっ」  ドアが開くとともに、竹ノ内は背筋を伸ばし、ホームに大股で降り立った。  いかにも東京の下町といった空気を醸し出す南千住を、竹ノ内は大股で闊歩していく。浮浪者か日雇い労働者かの区別しがたい老人男性たちが、道の端で日中からワンカップを片手に談笑している。それを見て、羨ましいとは思わない。そもそもあまり酒が飲める口ではないし、現役時代もポスターを持参し、挨拶回りで訪れた店でたまに飲む程度だった。プロレスラー=たくさん飯を食って、たくさん酒を飲むというのは偏見だ。プロレスラーもアスリートである以上、食生活や健康管理には人一倍神経を注ぐ。  南千住駅から南側は、昔ながらの家屋と一泊数千円程度のビジネスホテルがひしめき合っている。今では珍しいワンコインで買える自動販売機も、ちらほらと見受けられる。竹ノ内は自販機に百円玉を入れて、どこのメーカーか分からない缶コーヒーのボタン押した。歩行者専用道路も、大柄な元プロレスラーの竹ノ内が歩くと、異様に狭く見える。  駅から十五分ほど歩くと、古ぼけた自動車修理工場のような建物が見えてきた。ここが魂プロレスの本社兼、道場でもある。建物の中からは、マットを蹴る音と、「ファイト!」や「ゴーゴ―!」など潔い掛け声も聞こえてくる。ちょうど今の時間帯は、春に入門した練習生たちの合同稽古が行われているのだろう。  せっかくだから俺も参加して稽古をつけてやろうかと、竹ノ内は腕を回しながら道場をくぐった。
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