プロレスラー・大島秀一郎

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プロレスラー・大島秀一郎

「うわああああああああああ」 「いやあああああああああああああ……」  バチンという皮膚を力強く打ちつける音と、その痛みに耐える叫び声が道場内に木霊した。リングの上では、まだ幼さの残る短髪の青年たちが、胸を赤く腫れさせながら、必死に踏ん張っている。去年入寮した練習生たちが、「チョップ」の打ち方を教わっている真っ最中だ。 「よーし、山口、今のよかったぞ。三木、お前は少しビビり過ぎだ。もっと、腹に力を入れろ」  リングのエプロンに立ち、ロープに腕を乗せて練習生たちを指導しているのは、カブト冴島(本名・冴島龍)だ。魂(スピリット)プロレスの『ビートルズ』というユニットに所属するレスラーだ。他の競技と違い、プロレス団体には専属コーチなどはおらず、多くの場合は現役のプロレスラーが練習生たちの指導をする。リング上で試合をするだけが、プロレスラーの仕事ではない。それに、実践(・・)の技は、実戦(・・)を経験した者からしか学べない。  年が明けて一月四日、今日が新年初の合同練習だ。去年の一二月二六日の後楽園ホールでの興行を最後に、魂プロレスは正月休みという体をとっている。もちろん完全に休みというわけではなく、一部の所属レスラーはスポンサー企業の忘年会・新年会に参加したり、年明け早々から営業に回っている者もいる。  パイプ椅子に座り、コーヒーの入ったマグカップを持って、冴島コーチ指導の合同練習を眺める竹ノ内も、さっきまで後援の会社に新年の挨拶行っていた。現役時代の癖で、未だにコーヒーは砂糖類を一切入れないブラックだ。男の世界のプロレス道場に、コーヒーサーバーのような洒落たものなどあるはずもなく、マグカップの中身はインスタントだ。  だめだ……少し離れたところからリングを眺める竹ノ内は、心の中で溜め息をついた。その溜め息は、リング上で正座しながら冴島の話を聞く練習生たちに向けられたものだった。  彼らには何かが足りない。それは「形」のある物ではない。リング上で汗を垂らし、息を切らせながら話を聞く練習生たちも、日々厳しい稽古に耐えているだけあって、プロレスに必要な技術を確実に身に着けていっている。身体もそれなりに仕上がってきていて、竹ノ内から見ても、良いレスラーになるだろうと思える者も数名いる。だが、それはあくまで技術的な面においてだ。  プロレスはリング上で組み合って、技を繰り出すだけの競技ではない。リングで戦うレスラーを応援し、愛し、熱くなってくれるファンがいてこそ、初めて「プロレスラー」になれるのだ。観る人々に「勇気」を与えられなければプロレスではなく、ただのレスリングに他ならない。  果たして彼らにそんなプロレスができるだろうか。去年入門した練習生だけでなく、ここ数年の魂プロレスのレスラーを見ていて、竹ノ内はそう感じていた。魂プロレスにもベビーフェイス、ヒール、お笑いと様々なレスラーがいる。それぞれが、それぞれの持前を活かして素晴らしい試合を繰り広げるが、プロレス界に革命を起こさせるほどの者は、今のところいない。  一度、団体内に対しての起爆剤として、海外から大物レスラーを高い金を払ってまで、リングに上ってもらおうかと竹ノ内は考えたが、実行には移さなかった。当時の社長が「魂プロレスは、看板選手を自分らで育てられないのか」と他団体やメディアから、嘲笑されることを懸念したからだ。  だが、もうすぐだ。もうすぐ、魂プロレスのみならず、プロレス界に嵐を巻き起こす男が現れるはずだ。いや、もう来ている。  団体の行く末を閉じた目で憂いていた竹ノ内だったが、その大きな背中にとてつもない「覇気」を感じ、ゆっくりと目を開いた。 「ついに……来てくれたか」  鍛え抜かれた巨体に、鷹のような風貌を持つ竹ノ内だが、心は純粋な一レスラーだ。今にも咆哮したいような歓喜を覚えたが、練習生たちの手前何とか堪えた。だが、溢れんばかりの喜びと、期待を込めてゆっくりと道場の入り口を振り向いた。  そこには一人の男、覚悟を決めた男、戦うために生まれた男、友というべき男、プロレス界に革命を起こす男、プロレスラー大島秀一郎が立っていた。  細くすらりと引き締まった身体は、まさに修羅の道を行く「侍」そのものだった。 「待っていたよ」  好奇心に満ち溢れた目で道場内を見回す大島に、竹ノ内は歩み寄り手を差し伸べた。 「よろしくお願いします」  その手を大島は力強く握り返した。剣道で培われた大島の握力に、竹ノ内は満足そうに頷いた。  リング上の練習生たちや、冴島に挨拶をする大島を見ながら、竹ノ内は彼のリングネームを考えた。デビューしたてのレスラーは、たいてい本名の場合が多いが、大島だけにはふさわしいリングネームがあった。 『ラストサムライ』  最初にして、最後のプロレスという修羅の道を行く現代の侍。大島秀一郎には、このリングネームしかない。本人に教えたらどんな反応をするだろうか。竹ノ内はリングを真剣な目で観察する侍を見ながら、心を打ち震わせた。
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