ちゃんこ

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ちゃんこ

「九五、九六、九七、九八……九九、五〇〇……」  五〇〇回のスクワットを終えた大島は、尻もちをついた。プロレスラーにとって、足腰の強度は重要になる。どのプロレス団体にしても、入門したての練習生は何百回というスクワットを課せられる。そして、そのきつさに耐え切れず、入門初日に辞めていく者も少なくない。剣道家時代から厳しい稽古を行っていた大島からすれば、楽勝とまではいかないが、難なくこなすことができた。 「大島君、お疲れ。やはり、武道を続けていただけあって、体幹がしっかりしているよ」  大島に水の入った紙コップを手渡したのは、バーコード頭の眼鏡をかけた初老の男だった。企業の管理職にいても不思議ではない風貌だが、この薄毛の男も魂プロレスの所属レスラーだ。  リングネーム・『終日係長』(本名・田口博信)、通称・係長、四八歳。元々は地方銀行で副支店長の職にあったが、若き頃からの夢を捨てきれず退職し、数年前に魂プロレスの門を叩いたという経歴の持ち主だ。元はサラリーマンという経歴は大島と同じだ。現在、彼が大島のトレーナーを務めている。 「いえ……皆さんには及びませんよ。俺も一日でも早くデビューできるように、努力しなきゃ」  受け取った水を飲み干して、大島は息を少しずつ整えていった。魂プロレスに入門して、はや一ヶ月。 「焦ることはないよ。まずは基礎をきっちりと固めることだよ。プロレスラーにとって、身体は商売道具であり、命でもあるからね」  銀縁眼鏡の位置を整えながら田口は、大島を諭すように言った。 「はい。肝に命じます」  大島の返事に、田口は満足そうに頷いた。 「いやあ、それでも大島さんはすごいっすよ。俺が入門したての頃は、スクワット五〇〇回どころか、腕立て一〇回も続かなかったすもん」  アキレス腱を伸ばしてストレッチをする大島を、砕けたトーンで褒めたのは金髪にメッシュが入った長髪の若者だった。  リングネーム・『グレート・もんじゃ・デラックス』(本名・楠大介)、通称もんじゃ、二〇歳。デビューして一年目の、魂プロレスでは一番の若手レスラーだ。子供の頃からプロレスラーになるという夢を持っており、高校卒業後すぐに魂プロレスに入門した。リングネームの「もんじゃ」は、彼の実家がお好み焼き屋であることに由来するらしい。  楠は外見こそチャラいが、中身は純情な若者で、入門したての大島に魂プロレスでの雑用や練習法を親身になって教え、まだ入りたての彼を兄のように慕い懐いている。大島自身も楠の気さくな人柄を好ましく思っている。 「長年剣道をやってきた甲斐が、ここで役に立ったよ。楠君こそ、いつもあんな高重量のベンチプレスを上げてすごいじゃないか。俺なんかじゃ、とても真似できないよ」 「いやあ、あんなの大したことないっすよ……」  重量挙げの力を褒められて、楠は恥ずかしそうに頭を掻いた。 「大島君も続けていれば、いずれ持ち上げられるようになるよ。そのためには身体を大きくすることが必要だ」  そう言って田口は、大島の裸の上半身を指さした。 「剣道をやっていただけあって、前腕は逞しいよ。身体も引き締まっていて綺麗だ。だが、どうも華奢さは否めない。やはり、上半身にもう少し厚みがあった方が、見栄えがいい」  指差された自分の身体を見て、大島は静かに頷いた。確かに剣道をやっていた時から、身体づくりには気をつけてきたつもりだ。しかし、ダンベルやバーベルを使用してのウエイトトレーニングはしてこなかった。だからか、腹筋はそれなりに綺麗に割れてはいるが、二の腕や胸板は、プロレスラーとしては少し貧層だ。 「ええ、稽古後はマシンを使用しての、自主トレーニングも欠かしていません」 「まあ、昨日今日でそう簡単に、身体は大きくならないよ。大きくするとなれば、やはり食事が一番大切だ。そろそろ昼時だ。ちゃんこも出来上がっている頃だろう」  田口が食堂のほうを親指で指した。その方角から、食欲をそそる匂いが漂ってきている。 「今日のちゃんこは何すかね?いい加減、キムチちゃんこは飽きたっすよ」 「贅沢言うな。君はここ最近、ちゃんこ番なんてやってないだろ?大島君、飯にしようか」  腹を空かせたという顔をしている楠を嗜めながら、田口は大島の肩を叩いた。 「はい」  返事をした大島はストレッチをやめ、田口と楠とともに食堂に向かった。  狭い。食堂に入った大島が感じたのは、その一言だった。  食堂の間取りは、決して小さく設計されてはいない。しかし、どうも窮屈に感じてしまうのは、部屋の中で箸をつつく男たちがでかいからだ。現在、食堂内にはちゃんこ番の練習生と、朝の合同練習を終えた練習生たちと、大島を含む所属レスラーたちが、各々ちゃんこをつついている。  長テーブルには三つ大きな鍋があり、中には豚肉や野菜、豆腐や油揚げなど具沢山に煮込まれている。そこにキムチで味付けしているため、空っぽになった胃を程よく刺激してくる。  ちなみに「ちゃんこ」と聞けば、鍋をイメージすることがあるが、本来は相撲部屋やプロレス団体において、「ちゃんこ番」が作る料理全てを含むらしい。極端な例を言えば、カレーライスや炒飯も、相撲部屋やプロレス団体では、ちゃんこに含まれる。 「さて、食おうか。大島君」  田口、楠と一緒に並んで座り、大島はお椀を手に取った。 「田口さん、よそいますよ」 「ああ、すまないね」  大島は田口と、自分の分とを鍋からお玉ですくい上げて、お椀に移した。楠の分も取ろうと思ったが、よほど腹を空かせていたのか、当の本人は真っ先に自分の分をよそって、勢いよく口にかき込んでいる。 「いただきます」  行儀よく手を合わせた大島は、まずは米を口に運んだ。ただの白米ではなく、玄米と合わせて炊いたものだ。玄米はビタミンやミネラルが豊富ということから、魂プロレスのちゃんこには、玄米と白米の合わせを採用しているらしい。  ちゃんこ鍋も、正直最初は具材が一緒くたになり、見栄えも決していいとは思えなかったが、初めて口にした瞬間、己の浅はかな評価を恥じた。日によって、味噌やキムチ、塩とベースはちゃんこ番によって違うが、味は格別だった。豚肉も柔らかく煮込まれ、具沢山の野菜も出汁がしみ込んで、米がいい感じに進んだ。 「ところで、竹ノ内さんから聞いたが、大島君は以前、北村商事に勤めていたんだってね?」 「ええ、そうです」  隣で同じように鍋をつつきながら訪ねてきた田口に、大島は出汁を啜りながら頷いた。 「なるほどね。いやあ、私もここに入門する前は、帝都銀行の葛飾支店にいてね。北村商事には、取引の関係で何度か足を運ばせてもらったよ」 「へー、ていぎんといえば、メガバンクに次ぐ規模の地銀じゃないですか。長く勤められていたんですか?」 「大学卒業後に入行して、二〇年間いて副支店長までなったよ。でも、子供の頃からの夢であったプロレスラーになることを忘れられなくてね……それで退職して、今に至るわけだよ」  お茶を飲みながら田口は、どこか懐かしむような目をした。自分もそうだが、プロレスラーには、いろんな経歴の人間がいるものだと大島は思った。 「素敵じゃないですか。いつまでも夢を諦めない純粋さと、その夢を叶える行動力。俺は素直に尊敬します」 「ははは……ありがとう。だが、おかげで失う物も多かった。収入もそうだが、家族にはいろいろと迷惑をかけたよ」  素直に褒める大島に、田口は切なそうに笑いながら茶を口にした。湯呑を持つ左手の薬指に、銀の指輪をしているのが大島の目に入った。 (この人にも家族がいるんだな……おそらく子供も)  普段は優しくも、時に厳しく大島を指導してくれる田口だが、この薄毛の中年レスラーも多くの物を背負い、犠牲にして今があるのだなと感じた。独身の大島と、家族のいる田口とでは、会社を辞めてプロレスラーになるという選択の重さは全く違う。  その重みを背負い、家族を犠牲にしてまでもレスラーとしてリングで戦う男に、大島は強い尊敬の念を覚えた。 「のんきなもんだね。無所属さんたちは」  米をお代わりして、田口、楠とともに談笑しながら食べていると、嘲るような声をかけられた。  声のした方を見ると、大き目の黒縁眼鏡をかけた黒髪の長髪の青年が、軽薄な笑みをこちらに向けていた。彼も所属レスラー、それもヒール(悪役)ユニットのレスラーだ。  リングネーム・『キラーハイボール』(本名・江川涼介)、二五歳。魂プロレスの悪役(ヒール)レスラーの一人で、試合では髑髏がプリントされたマスクを着用している。リングネームの通り、口から毒霧と称して、ウイスキーを噴射し、相手の視覚を奪って丸め込むという戦法を得意としている。 「江川君、そういう言い方はよしてくれないか。確かに、僕も楠君もユニットに所属してないが、しっかり試合はこなしているよ」  馬鹿にしたような顔でこちらを見る江川に、田口は静かに反論した。口調は穏やかだが、田口の語気にはどこか悔しさが入り混じっているように大島は聞こえた。 「ふん、無所属の連中の試合は、しょっぱくていけねえや。それと楠、年末の後楽園で、お前のDDTのおかげで、俺は負傷したんだ。そのこと忘れてねえからな」  江川は大島の左に座っている楠を指さしながら、自分の首元を片手で抑えた。 「……すみません」  指摘された楠は、ぽつりとだが消え入りそうな声で謝った。先輩レスラーである江川に面と向かって口論できず、楠はテーブルの下で拳を握りしめている。 「後輩いびりもその辺にしとけよ」  楠に凄む江川の肩に手をやったのは、スキンヘッドのいかつい顔つきの男だった。爪楊枝を咥えたスキンヘッドは、言葉こそ江川を抑えているが、その顔つきは同様に楠や田口を小馬鹿にしたものだった。  リングネーム・『飯島貴信』(本名も同じ)、三〇歳。キラーハイボールこと江川と、同じヒールユニット『愚連隊』に所属するレスラーだ。筋骨隆々の身体と、光り輝くスキンヘッドから「暴走SUN」という異名があるほどだ。飯島とキラーハイボールは、魂プロレスのみならず、プロレスファンの中で、極悪ファイトを展開するタッグとして二人は度々話題に上っている。  極悪タッグの人を食ったような態度に、田口、楠ともに顔を険しくしている。プロレスのことは、まだまだ分からないことだらけの大島だが、ユニットに所属していないことが、そんなに後ろめたいものなのかと疑問に感じた。 「大島さんだっけな?あんた」 「はい、そうです」  爪楊枝で歯の隙間を掃除していた飯島は、田口たちと江川のやり取りを見守っていた大島に顔を向けた。トレーナーとして指導してもらっている田口と、同様に親身になって世話をしてくれている楠を馬鹿にされて、いい気はしないが、無視するわけにいかず静かに頷いた。 「竹ノ内さんは、ずいぶんとあんたに入れ込んでいるようだが、一つだけ忠告しておこう。リングの上は弱肉強食、『潰し合い』だぜ。そこに卑怯もクソもねえ。それが分からねえ奴は、どんどんと淘汰されていく。それが『プロレス』だ。まあ、デビューに向けてせいぜい頑張ることだ」  言いたいことは言ったという顔つきで、飯島は食器をテーブルに残したまま食堂を出て行った。飯島と同じように、江川も大島たちに不敵な笑みをくれて後に続いた。二人が残した茶碗や、コップを練習生たちが黙々と片づけている。  大島の隣にいる田口は無言で渋い表情を浮かべている。さすがに長年、サラリーマンという経験を積んでいるだけあって田口は、下手に言い返さず「耐える」という技を身に着けている。対して、若さ溢れる楠は、悔しさを顔に滲ませている。その証拠に、江川たちが食堂を出た後、「クソッ」と拳をテーブルに打ちつけた。  まだ、本当の「プロレス」を経験していない大島には、二人にかけてやれる言葉が見つからなかった。 「大島君」  二人の悔しさを推し量り、もどかしい思いになっていた大島に、田口は優しく声をかけた。その顔は、いつもの穏やかな田口だった。 「もっと食っておくんだ。午後からは、いよいよ実戦の技や、受け身の稽古だ。しっかり食べておかないと、身が持たないよ。楠君、一緒に参加してくれるね?」  田口は慣れた手つきで、大島と楠のお椀に柔らかく煮込まれた豚肉と、油揚げをよそった。 大島は隣の楠と顔を見合わせると、彼もメッシュの入った髪をかき上げながら白い歯を見せた。  そして、大島は田口からお椀を受け取ると、力強く頷いた。
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