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桜は好きかと訊かれたら、好きではないと私は答える。
染井吉野の話ではない。河津桜のことだ。あの濃い花の色は、私の目には禍々しく映る。
私の母のふるさとは、よく知られた河津桜の名所から少し離れた場所にある田舎町だ。母の実家は歴史ある女系で、長女が「惣領娘」として婿を取り家名を継いできた。母は四女のため、父と結婚して家を出たが、父方の家では出来の良い2つ上の兄のほうがもてはやされるのに、母方の家に行くと、兄よりも私のほうが可愛がられた。家によって扱いが違うことが、子ども心に不思議だった。
母の実家は女の子のほうが大事なのだと聞かされた頃には、私はもう中学生になっていて、長期休暇に両親の田舎に遊びに行くという定番のレジャーを卒業していた。だから、察していた通り、ちょっと変わった家なのだなとしか思わなかった。
私が母の姉……伯母、つまり一宮家の現惣領から声をかけられ、久しぶりにS県K郡の母の実家に向かったのは、大学生活も終わりを告げようという時だった。その頃私は、就職先をN市内の中堅の会社に決め、卒業論文も順調に仕上げにかかっていて、気持ちにもスケジュールにもやや余裕があった。
「伯母さんがね、恭子が大学に入った時も何もしてあげられなかったから、就職祝いをしたいんだって」
母は言った。国立大学に入って一部上場企業に就職している兄には、伯母からのお祝いは無かったのに。まあでも素直に有り難く思い、この話を兄に内緒にしておくことを条件に、私は承諾した。
母と訪れた一宮家の周辺は、薄青の空に濃いピンクの花が映え、私が暮らす地域よりひと足早く春の空気に包まれていた。その中に比較的大きな日本家屋が点在する。外国人観光客に受けそうな風景は、まだ日本人の花見客の手垢もついていない。
「きれいねぇ」
母は懐かしさ混じりで言ったが、私はそうね、と気の無い返事をした。私はこの花を、小さい頃は桜だと認識していなかった。私にとっては小学校や近所の公園で咲く染井吉野が桜であり、早春に咲き始めるこの濃い色の花は、別のものだった。染井吉野は美しい。河津桜も美しいが、何か違う。小さい頃から胸に抱えた思いを、私は未だに拭い去れなかった。
一宮家は庄屋ではないが、この地区の神社との結びつきが強く、女系であるという特殊性のせいか、周辺から敬意を払われている。私はこの一宮家に連なる女子だというだけで、この土地に来ると近所の住人からお嬢様呼ばわりされるのだ。今もバス停からこの家の門に着くまでに、すれ違う老人たちから丁寧に頭を下げられた。
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