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顔を上げられず、手元ばかり見ていると、テレビの傍に紙が落ちているのが目に留まった。
距離があってよく見えないけど、間取りのような図が書かれているように見える。
もしかして、引っ越すのかな。
「このカーペットも、そろそろ買い替え時だしさ」
彼がそう言うのを聞いて、引っ越すのかもしれないとぼんやり思った。
私が街を出て行かなくたって、彼が出て行く可能性もあったんだ。
「あのさ。俺、いつも架純に休みを合わせてもらってたでしょ。俺、忙しいって言ってたけど実際は、上司の態度が怖くて残業を断れなかったんだ」
空になったコップにオレンジジュースを注いで、戻ってきた榊原くんがぽつりと言った。
別にそういうことだってあるだろうし、私はそれを気にして別れた訳じゃないから、どう返事をすればいいのかわからなくて、ただ相槌を打った。
「でも、この前初めて残業を断ったんだ。すごく勇気が必要だったし、次の日まともに上司の顔見れなかったけど」
彼はそう言って笑った。
どこか自虐的な笑いだった。
「おかしいよね。残業なんて義務じゃないし、残業して行う業務も急ぎじゃないのに、何で上司の顔色伺ってんだろって思ったら、すごくバカみたいに思えた」
付き合っている間、榊原くんは私に仕事の話をしなかった。
とりわけ、こういう愚痴のような話は話さなかったように思う。
だから、彼が上司とあまりうまくいっていない様子なのも、残業を無理していたのも、初めて知った。
忙しいと彼が言っていた裏では、彼の葛藤があったらしい。
知らなかった。
付き合っていた時に、知りたかったな。
今聞いたって、どうもしてあげられないのに。
それが悲しく思えた。
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