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ミヨリがイガラシくんを見かけたのは、仕事帰り、駅にいたる道の途中で信号待ちをしているときだった。自転車に乗った男性が赤信号に足を止めたと思ったら、イガラシくんだった。よく見れば、彼はママチャリに乗っていた。
真新しいもので、夕日を受けた車体がつやつやと光っている。後ろにはミヨリも乗れそうなくらい大きな座席がついていて、アンパンマンの名犬チーズのシールが貼られた小さなヘルメットが置いてあった。
似合っていないな、ママチャリ。ミヨリは心のうちでつぶやいた。
イガラシくんもミヨリに気づき、少しためらった後で、
「ヨシモトさんもこっちの方なんですね」と言ってから、あわてて付け足した。「あ、帰り道が」
職場ではミヨリさんとか、ミヨちゃんとか、そう呼ばれていて、名字で呼ぶのは課長かイガラシくんくらいだった。
イガラシくんのことは、嫌いというわけではなかった。嫌いというよりは、彼のことをよく知らなくて、苦手だった。サラダの中にピーマンが入っていたときのように、顔が、げ、という表情をつくった。
子どもいたんだ、イガラシくん。
別に表情で尋ねていたつもりもなかったが、彼は一人でしゃべり始めた。
「今から子どもを迎えに行くんです。あれって、時間がきっちり決められてるんですね。知らなかったな、ははは、いつもは妻に行ってもらってるんで。なんか、今日は具合が悪いみたいで、朝も、僕が娘を送っていったんです。
夕食も僕がつくらないと。スーパーに寄ってから帰ろうかな。具合が悪いときって何が食べたいんだろう。それとも何も食べたくないのかな。僕、具合が悪いときも食欲がなくならないタイプなんで、よくわからないんですよ。ヨシモトさんは何がいいと思いますか」
知らんがな、と思ったから、
「知らんがな」とミヨリは言っていた。
あ、しまった、と思ったが、イガラシくんは声を上げて笑った。ミヨリもつられて笑った。
奥さんのこと、妻って呼べる人なんだ。
コアラみたいにマイペースにキーボードを打ち、給湯室でドリップコーヒーを大事そうに入れて、お昼休みの後にはあくびばかりして眠たそうな、そんなイガラシくんしか知らなかったから、何だか新鮮で、嬉しい気さえした。
「あのさ、下の名前で呼んでよ。職場のみんな、そうだから」
イガラシくんは、また、笑った。
「あ、そういうの大丈夫です」
信号が青に変わりました、と信号機が言った。
ひらり、とからだを軽やかに持ち上げてイガラシくんはママチャリにまたがった。
「じゃあ、お疲れ様です、ヨシモトさん」
電動自転車のモーターが、ぐん、とイガラシくんのからだを加速させた。夕暮れの中、彼の背中はすぐに小さくなって、まちの景色にまぎれて消えていった。
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