いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?

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いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?

 どうせアルバイトをするなら、人間観察を出来る所がいい。小説を書くときに人物の容姿、年齢、性別、口調などの書き分けに役立つはずだ。通信高校卒業後は通信大学の文芸学部に行く気満々の私は、初めてのアルバイトとしてファーストフード店を選んだ。業界トップの所は厳しそうだから三番手を狙い、週3日、火、木、土曜日のランチ帯、一日3時間のシフトを割り当てて貰えた。週2日だと4時間と5時間のシフトになる。規則正しく一日置きに短時間働いた方が、生活のリズムも整いそうだ。 「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?」 アルバイトを初めて3ヶ月、愛想笑いも少しだけ上手になった。そして、このバイト先で一番大きな収穫は、新入社員の三田葵さん。地元の私立美大の日本画科卒で、就活が面倒臭いという理由だけで、そのままバイト先だったこの企業に就職した強者。 「もう就職はここでいいやって。仕事も幾らか覚えて勝手はわかってるから」 ある日のランチピーク後に話す三田さんに、フルタイムパートでマネージャー資格を持つ佐藤さんというオバサンがダメ出しをする。 「コラコラ、アルバイトの新人さんの前で社員がそんな口のきき方したらいけません。ここ『が』いいから就職したのよね?」 佐藤さんの注意で三田さんは言い直す。 「そうです。ここがいいから就職しました」 三田さんと佐藤さんの掛け合いは漫才のようで面白い。美大の日本画科という就職とは一番縁の遠そうな大学から、バイト先に就職。  目から鱗が落ちた。 最悪、就活に困ったらこの手が使える。三田さんは自分の好きな事を学ぶ夢と就活という現実の二つできちんと結果を出している。こんな風に生きればいいんだ。目の前の不安の雲が晴れて視界が開けていく。  体調が悪いとたまに遅刻や欠勤をしたり、まだまだ本調子ではないけれど、高校卒業まではここでアルバイトを頑張ろう。母の出した条件を絶対にクリアして見せる。 意気込んでいた私を思わぬハプニングが襲った。いや、想定しておかなければいけなかった事態に遭遇したという方が正しい。中学が一緒で高校が別の苦手だった女子が来店した。 「あれ、野島さんじゃん?久しぶり。バイトしてるの?大学ってどこ行ったの?」 ああ、そうだ。皆はもう大学一年生なんだ。口ごもると怪しまれる。 「大学は通信でちょっと珍しい学部なんだ」 夢を先取りして小さな嘘をついた。 「へぇ、凄い。第一U女子高校は辞めたって他の子に聞いたけど、粒揃いのあそこで深海に沈むと辛いよね。でも勉強は出来るからやっぱり大学は行くんだ。私は看護学校で大変だよ」 彼女は私のことを全然凄いと思ってないし、完全に馬鹿にしてる。挙げ句に看護師を目指す私凄いでしょ?と、見事なマウントまで取る。これが柔道の試合なら、背負い投げ一本で惨敗だ。私は愛想笑いで誤魔化しながら、 「わー凄いね、看護学校。あ、ごめん、仕事中だから一応。いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?」 決まり切った接客用語でなんとか乗り切った。 彼女が頼んだ味つきポテトに味のパウダーをつけ忘れた、わざとだけどね。深海に沈んで悪かったなと毒づきながら。テーブル席からカウンターに戻ってきた彼女は、口を尖らせる。 「野島さん、プルプルポテトのパウダー忘れてるじゃん。わさび味ってさっき言ったのに~」 私はごめーんと明るい声で謝りながら、わさびパウダーを手渡した。バーガーはいいとして、せめてポテトは止めたら?これ以上太ると看護師さんの制服とか、規格外の特注サイズになるよ。心の声を隠して仕事の続きに戻る。  彼女はテーブルとテーブルの間を窮屈そうに抜けていく。まるでBLTサンドに挟むベーコン。ベーコンにスライスされる前のブロックの塊が店内を闊歩してるように見える。少しは痩せたら?侮蔑の笑いを堪えながら、次のお客さんが注文したドリンクとポテトをテキパキと用意する。  痩せているということは私の鎧だ。人を傷つける悪意から身を守るためにスレンダーなスタイルを保つ。人の挫折を心配したフリをして嘲笑ってマウントを取っても、あなたは醜く肥えて太ってるじゃないか。優越感に浸るために私は太る事を極度に恐れ、体重維持には人一倍気をつけていた。気をつけ過ぎて、いつからか食べる事を楽しめなくなってもいた。 でも、それでもいい。味わいと食感を楽しんだ後の食べ物を、余分な脂や肉にならないように、「自己管理」しているだけ。鬱とはまた別の異変が自分の身に起きていることに私は全く気づいていなかった。
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