ドクターストップ

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ドクターストップ

 ただ食事を「自己管理」していただけなのに、両親は慌てふためき、主治医からはアルバイトを辞めるようにとドクターストップがかかった。私は強く抗弁した。 「中学時代の苦手な女子に遭遇しただけで、別になんともありません!バイトを辞めたら行きたい大学に行けなくなるから絶対に辞めませんから!」 いつからなのか、大嫌いな母の金切り声そっくりの声で人に怒れるようになってしまった。診察に付き添ってきた母が早口で言い添える。 「もう、その条件なしにするから。だから、あんた、ちゃんとご飯くらい食べなさいよ!一体どれだけ人に心配掛ければ気が済むの!?」 娘と母の金切り声の二重奏。それでも主治医は狼狽えない。 「いいですか、野島さん。お母さんも大学に行く条件は付けないと言っています。一度しっかり休みましょう。アルバイトも十分頑張ったじゃないですか。病気が無くても3ヶ月も続かずにアルバイトを辞める人だって世の中には沢山いますよ。このまま食べない生活が続いたら、内科的な問題が出て来て、大学にも行けなくなります。今、一番大切な事は何ですか?」 ゆっくりと丁寧で落ち着いた主治医の声で、私は考え込む。口うるさい母も黙って主治医の話を聞いている。 「通信制大学の…文芸学部に行く事です。でも、食べてない訳じゃなくて、ちゃんと一口は好きな物を食べてるし、それに…。太ったら私を守る鎧が消えてしまう…。私にとって体型は剥き出しの悪意を跳ね返す鎧なんです…。スタイルを保つ事で侮られないように武装してるのに…」 気がついたら涙が溢れていた。主治医は十分な間を取ってから語り出す。 「余りに芸術的な表現で、仕事を忘れてちょっと浸ってしまいました。でもね、自分を守る鎧が必要なら、言葉はどうでしょう?野島さんの語彙力と表現力は、体型よりももっとしっかりと自分を守る、強固な鎧になると僕は思うんですよね…」 私は主治医の上手い返しにはっとする。体型は強迫的な「自己管理」をしないとすぐ緩んで膨らんでしまう。でも、言葉や文章なら体型をそこまで気にしなくても、自分の意思で操れる。 「バイトを辞めて休んで…もう少し食べる努力をしてみます。それと、大学に入る前に何か…何になるかはわからないけど、まとまった文章を書いてみたい…。それが今の私にとって一番大切なことだと…思います」 「そうですね、ちゃんと自分で答えを出せましたね。もし良かったら書いた文章を見せてください。先生、楽しみにしてるから」 穏やかな主治医の笑顔で診察は終わった。精神科医ってストレスが溜まりそうな仕事なのに、よくあんなに穏やかでいられるよね。他人の心配より自分の体調のを心配しなきゃいけないのに、母と娘の金切り声の二重奏を聞かされても動じない、主治医のメンタルの健康の秘訣が知りたいと密かに思った。 まあ、企業秘密みたいなものだから教えてくれない気がする。患者に精神科医が実行するメンタルの健康のコツを教えて実行されたら病院がつぶれちゃうから。
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