高校四年生

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高校四年生

 普通は三年で卒業する高校。全日制で単位を落として通信制で私は高校四年生になる。驚くほど簡単な勉強で単位を取れるのはいいとして、卒業後はどうしたらいいのか。進学も就職も学校のフォローはなく、自分で決めて必要書類等を学校に頼む方式。自主性、主体性、積極的に学ぶ姿勢がないと卒業すら危うい。  一人でも多くの生徒が卒業出来るように、先生達はスクーリングの日以外にも、学習指導日を設けて簡単なレポートすら覚束ない生徒に勉強を教えている。進路情報室には一応は進学向けの資料が揃えてある。レポート提出とスクーリングの後に立ち寄ってみた。有名大学へ進学実績を挙げた人の体験談は、塾、家庭教師、民間通信教育などをフル活用していて、元々進学校からドロップアウトしてきた人が多い。  今の病んでる私にあの頃のような猛勉強はもう無理だ。進学実績の表の中に興味を惹かれる学部学科名を発見した。関西圏の大学の通信制の文芸学部。文学ではなく文芸。進路情報室のラックには、その大学ともう一つ、文芸学部があるこちらも関西圏の大学のパンフレットが隣り合わせで並んでいた。  B型作業所の「アート・ルーズリーフ」では、傷つきたくないし、評価が低くても落ち込みたくない。だから一番苦手だけど好きなイラストを描いていた。自分で紙モノ文具を作りたいという、小さな子供がお店屋さんごっこをするような感覚で。  でも本当は…。詩や小説を書く事が中学生の頃から好きだった。中学校に文芸部は無かったから、情報技術部に入ってパソコンで詩や小説を書いていた。二校の大学のパンフレットを読んでいくと、詩やエッセイや小説を書いて単位を取れるらしい。スマホで二校の情報を更に調べる。在学生や卒業生らしき人の生の声がネット記事やSNSで話題になっている。  「○○について短編小説を3000文字以上で書きなさいって、いきなり字数多すぎ~」  え?3000字なら400字詰め原稿用紙でたった8枚「しか」ないじゃん。上限字数は何字なんだろう、この課題。通信制だけど大卒資格が取れて、詩、エッセイ、小説の書き方も学べてレポートの一部も作品でいいの?卒業論文の代わりに卒業制作で小説を書いていいって?  大学なのに地上の楽園かよ! 履修科目も文学や文章系を中心に美術系や歴史も選択出来る。理数科目嫌いの文系好き、下手だけど美術も大好きな私にとっては地上の楽園を通り越して、極上の天国。この二校のどちらかに行きたい。パンフレットは持ち帰り自由なので、スクーリングの教科書がごっそり入った重いリュックになんとか詰め込んだ。  通信制高校生はスクーリングの荷物が多い。背筋と腹筋が鍛えられそうな兵士の背嚢のような重たいリュック。でも今日はやけに荷物が軽く感じる。  最近、ヒステリックな母の口癖は「とにかく大学だけは行きなさい、高卒なんて世間様に恥ずかしい、就職先もないからね!」、脅しも入っていた。父はヒートアップする母をよそに、「女の子だし好きな事をやれる専門学校や短大でもいいさ。唯花はピアノも弾けるから保育士さんとか」、母の地雷を踏み抜いた事も気づかずに呑気に話を続けようとする。「女の子だし短大でもいい」は母のトラウマでNGワードなのに、父は毎回けろっと忘れてしまう。母の金切り声が響き渡る。 「短大なんて中途半端は絶対に許しません!」 母はダイニングテーブルに置かれたティーポットをリビングに向けて勢いよく放り投げた。ティーポットのガラスが悲鳴を上げて粉々に砕け散る。床に転がった注ぎ口の部分は、今の母と同じ唇の形をしていた。ぶんむくれた「へ」の字型の注ぎ口は、床の木目を映しながらうねっていた。無言で食器を投げつけて抵抗や反抗をするのは私の専売特許だったのに。でも、母にとって、大学に行きたかったのに「女の子だから短大でいい」と自分の親に言われたことは、一生許せないほどのトラウマなのだろう。 「女の子だし『好きな事をやれる』専門学校や短大『でも』いい」 「女の子だから短大『で』いい」 二つの言葉には天と地ほどの開きがある。選択肢と選択権がある前者と、選択肢も選択権も与えられずに「これでいい」と勝手に決められる後者。  母のヒステリーはこの日なかなか収まらず、ダイニングの食器棚は、空っぽの製氷皿のように食器を全て吐き出してしまった。母の腕が製氷皿をぐっと押して氷を取り出すときのように、全部の食器を掻き出していく。二階の収納スペースに母が捨てられずに溜め込んでいる食器が山ほどあるから、それを出せば食器に困ることはない。派手に投げつけて我に返って掃除をする母。片付けで指を切ったふりをして母は泣いていた。指先を押さえる仕草がわざとらし過ぎる。本当は指なんか切っていない。  母は大学に行きたかったのに、私の祖父母は短大でいいと母の意見をねじ伏せた。悲しくて泣いていると思われたくないから、破片で指を切ったふりをする母。この人は逞しく強い。どうしてこんなに強靭な心を持った人から産まれたのに、私はこんなに弱いのだろう。  母は短大卒の事務職だと一般職しかない事を嫌がって、眉唾な英語教材の営業職に就職した。親の反対を押し切る就職は、身元保証人の書類の記入を親にを拒否されてしまう。世間で云う良い所には勤められなかった。それでも持ち前のガッツとスキルで、次は大手の保険営業の仕事を見つけて今は支部の班長という営業職数人をまとめる管理職になっていた。  母の四大卒に対する拘りは、見栄や世間体も少しはあるだろうけど、子供は女の子でも四大に行かせてあげたい。不器用でギャンギャンうるさくても母なりの愛情表現だと思う。 通信の四大の文芸学部は、絶対に四大主義の母と、鬱々として昔のようには勉強に身が入らない私が折り合える妥協点になるかもしれない。好きな事を学ぶのもいいと、病んでいる私をなんとか元気づけようとしている父も喜んでくれるだろう。長期休みに帰省すると、病んでる私とどう接していいかわからずに、挨拶以外なるべく関わらないように気を遣う、母自慢の大人しくて優秀な兄も少しは安心するだろう。 甘い見通しが容易く裏切られるとも知らずに、二年ぶりに晴れやかな気分で上機嫌のまま、家に帰った。
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