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「お散歩行こう」
キミはたとえ眠っていても、この声に敏感に反応して飛び起き、まんまるの目をキラキラさせながら走り寄って来た。カチカチカチカチカチ。廊下の床に爪が触れるときの音が、耳の奥に甦る。
好きな男の子の匂いを探していたのかしら、キミはいつも地面すれすれのところに鼻先を寄せながら、障害物にぶつかることもなく、実に器用に歩いていた。リズミカルに歩く姿を後ろから眺めていると、それだけで私の心も弾んできたものよ。天気のいい日には、キミの影も見えるから、キミがもうひとりいるみたいで、余計に気分が弾んだな。
雨が降ると、散歩に行けないからちょっと退屈だった。キミは胴は長いけど、足が短いから――それがかわいいのだけど――たとえ雨がやんでも、地面が乾かない限り、散歩はお預けだったから、他のコよりも退屈な時間が長引いてしまったね。おなかが濡れるのは、キミも嫌だったみたいで、外に出ても歩こうとはしなかったよね。でも、雪だけは特別だったみたいで、全身ずぶ濡れになるまではしゃぎまわっていたっけ。
キミは雪と同じくらい、こたつも好きだった。こたつの中で丸くなるのは猫だけかと思っていたけれど、どうやら違っていたみたい。あ、でも、こたつの中と同じぐらい、私の膝の上でも丸くなっていたね。キミの重さは5キロ弱。ずっと乗っかっていると、さすがに私の足がしびれた。が、キミはそれを察してか、そんなときはたいてい、こたつの中にそっともぐっていった。
それにしても、キミは18年間、スリムな体型を保ってきたんだよね。食いしん坊だったけれど、よく遊び、よく歩いていたから、ずっと変わらぬ体型でいられたんだよ。病気知らずの健康体だったのだし。長生きもしたのだし……。
私、車の運転免許をもっていないから、旅行はいつも電車とバスだった。乗り物の中では、ずっと窮屈なケージにとどまっていなければならなかったけれど、キミはいつもいい子でいてくれたね。おかげで、気軽に遠出することができたんだよ。ありがとう。
キミがかじっていたボールも、ワニのおもちゃも、お茶碗も、散歩用のリードも、旅行用のケージも、洋服も、キミの気配が染みついた何もかもを、いまだに手放せずにいるけれど、こんなにぐずぐずしていたんじゃ、いつまでたってもキミに心配かけたままなんだよね。安心して旅立つことなんてできないよね……。
今年こそ、あけなくちゃ。
萌黄色のカーテンをひらくと、ふくらみかけた桜のつぼみに、午後ののどかな陽射しがあたっていた。
「ああ、あのコがここに来てくれた日の桜も、こんな感じだったな……」
春の気配。
ふたりの暮らしが、今、ここから始まるのだ――
私はそんな気持ちを込めて、キミの名を「ハル」にしたんだよね。
この木がピンク色に染まるのを、毎年この場所から一緒に眺めていた。
花びらが散りゆくのも、毎年この場所から一緒に見届けていた。
ハルと一緒に見ていた景色なんだもの、心の底から嫌いなわけじゃないの。
今年は見届けるから――
散りゆくところを、最後のひとひらまで。〈了〉
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