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9-3. 止まない雪③
職場の現状は、千和が心配していたとおり ――
申し訳ない、と思うが、同時に心の別の部分は軽くなる。
母のことが好きだった人たちに囲まれているとどうしても覚えてしまう罪悪感は、しゃべっているうちに薄れてきていた。
母のテリトリーだけが生きていかねばならない場ではなくて、千和の居場所はちゃんとほかにある。
どこにいたって、すべてが上手くいくわけではないし、嫌な人もいるけれど、ひとつしかないよりはマシだ、と千和は思った。
「ありがとうございます」
焼香を終えあわただしく帰っていく彼らに千和は深くお辞儀をする。そして、姿が見えなくなるまで、そうしていた。
本葬を終えた翌日から3日間、千和はマンションで心良と大知の世話をした。母の遺品整理を、硝子に任せたためだ。
ついでなので弓弦と真島にも、公希を預かっても良いと連絡した。
ふたりにも千和の母が亡くなったことは告げたため、最初は 『こんなときに申し訳ない』 と遠慮されたが、結局は千和が公希をみることになった。
なんでも弓弦のほうはちょうど、映画の撮影が押していて朝は4時半に家を出て夜は1時に帰宅する生活になるところだったらしい。
おかげで公希は、千和の部屋に寝泊まりし、保育園への送り迎えも千和がすることになった。
―― しかも今回は、バイトではなく 『友人としてのボランティア』 という形であり、謝礼などの取り決めは特にしていない。
忌引き中のバイトは、千和の職場の就業規定にさわる可能性があるためにこうなったのだ。
「3日間も基本は無償で他人の子みるとか。私も大知と心良を任せてるのになんだけど、ありえない」
硝子は呆れていたが、それを千和が実感するのは、実践してみてからだった。
―― ワンオペ育児は、子どもの人数によらずハードすぎると思う。
朝、公希を連れてタワマンの1階に向かう。公希を保育園に送り、硝子と待ち合わせして大知を預かる。
大知は硝子と別れるとしばらく機嫌が悪いので、ぐずらせないように公園に連れていく。一緒に遊び、遊び疲れたところを見計らってベビーカーに乗せ、買い物をして帰る。
そのまま大知が寝てしまったら、目が覚めるまでは千和のフリータイム。大知の写真を硝子に送り、様子を報告する。
大知が起きたら硝子があらかじめ用意してくれた離乳食を食べさせ、また遊びに連れて出て、帰りに幼稚園が終わった心良を拾って、戻ったら心良の話を聞きながらふたりにオヤツを食べさせる。
心良がいると大知の機嫌がいいので、その間に家事。夕方、硝子が心良と大知を迎えに来たら、今度は保育園に公希を迎えに行く ――
(崇得さんとの間に子どもできなくて、本当に良かった…… これをずっと、ほぼひとりでこなすって、硝子すごいな)
改めて、親友を尊敬する千和である。
もっとも今の千和には、余計なことを考えずにすむため、この忙しさはありがたくもあったが。
金曜日の夜、公希を風呂に入れて寝かしたあと、千和は弓弦からラインが来ているのに気づいた。
弓弦 『3日間ありがとう。予定どおり日曜からは余裕ができそうなんで、あと1日よろしく頼む。日曜、良かったら食事いかないか? お礼をかねて』
弓弦 『離婚協議中が気になるんだったら、真島も公希も行くから問題ない』
千和 『だったら、うちがいいかも』
千和 『公希ちゃんにあれこれ食べさせてあげようと思って、買いすぎたんだよね。食材が絶望するほど余ってる』
弓弦 『すまん。代金は全部払うし、お礼もするから』
吊り目の猫がペコペコ頭を下げているスタンプが送られてきて、千和は思わず笑った。
千和 『カイロが謝ることじゃないけどね。冷凍庫がパンパンになってるんで、減らしてくれると助かる』
弓弦 『ぜひ協力させてください。いいワイン持っていくんで』
弓弦 『本音でいうと、すごく嬉しい』
千和 『よかった』
おやすみなさい、とスタンプを送り、千和は日曜日に出すメニューを考えてみた。
(ブロッコリーのサラダ、ホウレン草のおひたし…… いや、小松菜もあるから、小松菜をおひたしにして、ホウレン草はミックスシーフードとコーンでグラタンにしよう。グラタンなら、公希ちゃんも喜ぶかな。あとは全然使えなかったナスを豚肉と一緒に味噌炒めにして、ワイン持ってきてもらえるなら、赤でも白でも合うように、鶏をソテーにして。ジャガイモも大量に買っちゃったから、フライドポテトと肉じゃがに…… って多すぎ? そうだ、硝子と雛愛も呼んじゃえばいっか)
千和が硝子と雛愛にラインを送ると、ほどなくしてふたりから返事があった。
硝子 『行く行く! ビューシーさん来るんでしょ? もらいもののワインがあるから、持っていくね』
雛愛 『絶対行く! ビューシーさんまじ超絶イケメンなんだって? 硝子から2次元よりすごいってきいてるよ。新居、梅シロップは持ってきてるんだよね? じゃあブランデー持ってくから! 』
硝子と雛愛にそれぞれ返信しながら、千和は、友だちがいて良かった、と思った。
「では! なんだかんだお疲れさま! 」
「お疲れ様です」
「ちわちゃん、ずっと子守りありがと、お疲れ様」
「硝子こそ、遺品整理お疲れ様。あと雛愛もカイロも真島さんもお仕事お疲れ様ー! 」
「ちわちゃん、もしかしてもう酔ってる? 」
「なんでそうなる」
「だってテンションがヘンだもん。ねー硝子? 」
「それな」
日曜日の夜、7時 ――
千和の部屋に集まった大人たちは、口々に 『お疲れ様』 を言い合いながら乾杯した。硝子はノンアルコールのチューハイ、千和と真島は持ってきてもらったワイン。弓弦と雛愛は、千和が作った梅シロップのブランデー割だ。
心良はカルピスソーダの入ったグラスを、ちょっと無理やり公希のグラスに当てていて、硝子の膝の上では大知が赤ちゃん用ジュースのパックを小さな両手で持っている。
心良と公希が会うのは先週の鍋パ以来だった。
ふたりがまた揉めるのでは、と千和は少し心配していたが、心良はあのとき押されてこけたことを忘れたように、けろりとして公希に話しかけている。
そんな様子を、硝子は目を細めて眺めた。
「子どもはすぐに仲直りできるから、いいよね」
「悪いと思ったらなおせる柔軟さもあるしね…… ある意味、大人より賢いかも」
千和は、ワインを飲みながらうなずいた。今日はがっつり飲む気でいるので、ペースは早めだ。
空いたグラスにワインを注いでくれながら、硝子は 「そうかも」 と納得顔になった。
「育っちゃうと、なかなか変われないもんね。なぜか自分が絶対に正しいと思いがちだし、間違ったってわかると逆上しがち」
「なんだよね。自分の夫ですら、それだったし。兄もなにひとつ分かってなかった…… って、今まで言わなかったのはわたしで、責めるのは筋違いだっていうのはわかってるんだけど。硝子の旦那様なのにごめんね」
「いえいえ。身内はいろいろあるからねえ」
「そうなのよ。自分自身のことも含めて、いろいろモヤモヤするのよ」
「わかったけど、飲みすぎダメだよ。明日から仕事でしょ? 」
「わかってます。がっつり飲むけど、ほどほどで止める予定…… あ、大ちゃん」
大知が硝子の脚につかまるようにして立ち、顔をしかめてプルプルしだした。
硝子が心底、残念そうに天をあおぐ。
「あー…… ちょっとオムツ替えてくるね」
「いいよ、硝子。オムツなら、わたしが行ってくるから硝子はのんびりしてて」
「ありがとう、助かる」
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