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1-1. 再会①
結婚すれば人は変わる。
よくいわれることだけれども、それが結婚した当事者どうしの間でも適用されることだとは、結婚するまで知らなかった。
「ねえ崇得さん。夕食、たまには外で食べない? 待ち合わせして」
「もったいないだろう。家で作ったほうが安いしうまい」
「だって私はこれからお子さまの相手をしにいくんだよ。帰ったらクタクタで作る気しない」
「僕が作ってやるよ。めんどうくさがりだな、千和は」
そのあとの片付けはいつも私がするんじゃない、ということばを飲み込み、千和は玄関を出ようとする夫に手を振った。
「行ってらっしゃい。山登り、楽しんできてね」
「おまえも体力つけろよ。前に一緒に行ったときさ、低い山だったのに、すぐへばってたもんな。頂上であんなに待たされると知ってたら、ひとりで行くんだったよ」
「…… うん、ごめん」
へらりと笑って再度 『行ってらっしゃい』 と千和が言うと、崇得は無言で背を向けた。手を振るどころか、振り返りもしない。
―― あてが外れた。
千和がそう思うのは、日常のささいなやりとりの、ひとつひとつ。
―― 結婚する前は、好みのタイプではないけれど優しいし気の合うひとだと思っていた。
付き合った期間は短かったが、プロポーズしてくれたときには、結婚したいほどに好いてくれているのならば、きっと結婚してもうまく行くと思ってしまった。
お互いに愛し、尊重しあって温かな家庭を築けるものだと信じてしまっていた。
だが、それはあまりにも世間知らずで甘すぎる希望に過ぎなかった。
―― 結婚した彼は、気を遣うのをやめたらしい。
気を遣うのをやめた彼は、優しい人でも気の合う人でもなかった。
常に言いたい放題で、自分だけが正しいと信じ、少しでも逆らったりされると腹を立てて相手の欠点をあげつらい、相手が傷ついて黙るまで攻撃し続ける ―― そういうたぐいの人間だった。
けれど、離婚は考えたことがない。
崇得は多少、性格に問題はあったけれど、真面目で向上心が強く、浮気などはしない。生活費もきちんと入れてくれるし、休日には料理もしてくれる。
後片付けは一切せずに料理だけして 『僕は家事協力している』 とドヤるところはいただけないが、ともかく、平均値ラインのまともなひとだ ――
なのに不満を感じてしまうのなら、それは自分が悪いのだと千和は思う。
千和がほしいのは、誰かが誰かの顔色をうかがってビクビクしなくても、安心して暮らせる普通の家庭。
それは、何の努力もせずに手に入るものではない。
ゆっくりと冷たい音を響かせて閉まる玄関のドアを眺めながら、がまんすればいい、と千和は自分に言い聞かせた。
がまんして、あきらめて、うまくやる。
そうして、幸せな結婚生活を実現させている。
(けど、こんなにしばしば寂しくなるとは思ってなかった…… ま、きっとみんな、こんなものだよね)
千和はあらかじめ用意していたリュックと紙袋の中身をいまいちど確認し、靴をはいた。
ふと玄関の横を見れば、細い鏡に写るのは、ラフなスタイルのアラサー女。Tシャツにカーディガン、ジーンズにスニーカー。セミロングの黒髪は後ろでひとつにまとめている。
ファッション意識のかけらもないが、小さい子と出かけるには最適であるはずだ。
―― 千和はこれから、兄の家に行き6歳になったばかりの姪の世話をする約束をしている。
兄嫁は千和の親友。崇得に言った 『お子さまの相手で帰ったらクタクタ』 は本当のことだが、それでも、兄と彼女の間にできた子が、かわいくないわけがない。
ほんの少しおとなびてきた姪の顔を思い浮かべて口元をほころばせ、千和は早足で色づいてきたイチョウ並木の下を、駅へと向かった。
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