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1-5.再会⑤
千和は結婚するまで、処女だった。彼氏はいたこともあるが、セックスをするまでの関係には至らなかった。
厳しい母親によって男性への偏見と恐怖を植え付けられ、今どきありえぬほどの純粋培養で育てられてしまった千和。初めての彼氏ができたのは、大学生になってからだった。
彼は、学生バンドでギタリストをやっていた。彼に好きだと言われて、ふわふわと付き合うことに同意したら、ともかくほめまくられ強引にキスされ、部屋に来ないかと誘われた。
―― 今の千和ならば、それは仕方のない流れであると理解できよう。その気がまったくないのならばまず、付き合うことに同意などすべきではない。
だが、当時の千和は自己評価が不当に低かった。そして、その恋愛観は清くかわいらしい恋愛小説をベースにした現実味のないものだった。
だから 『自分なんかに好意をしめしてくれるのに断ったら申し訳ない』 とお付き合いを引き受けた割に、いきなり現実をてんこ盛りにされた流れにはどん引いてしまったのだ。
『結婚するまでそういうことはしないんだよ』
言いきった千和に彼もどん引いただろうが、苦笑いしただけだった。
その後も付き合いは続き、彼の猛烈なプッシュもまた続いた。純粋培養の不幸な点は、経験が浅いからこそできる恋愛 ―― 手をつなぐだけでドキドキするような経験をすることなく、いきなり大人になることを要求されるところだと千和は思う。
ともかくも当時の千和は、押されれば押されるほど 『このひと単にカラダ目的なんじゃ』 という純粋培養かつ自己評価底辺ならではの疑いが膨らんでいってしまっていた。
やがて彼は千和に 『俺は茶飲み友だちが欲しくてお前と付き合ってるんじゃねーぞ』 と言うようになり、それからすぐに千和が彼のバンドのライブに行くことを禁止した。
(わたしをキープしつつ、ライブにきた女をお持ち帰りする気だな)
自分が悪いのか。でもセックスしないのがイヤなら、別れてくれればいいじゃないか。
日々、強くなってくる要求に疲れて、別れてほしいと何度も頼んでいるのに別れてくれないのは、彼のほうじゃないか ――
千和は悩み続け、モヤモヤに耐え切れなくなって彼のラインに絶縁宣言を送ってブロックした。
そして、共通の知り合いに事情を説明し 『今後、彼に私の話は出さないで』 と頼んだ。彼女はおそらく、彼の次のターゲット。
彼は彼女と話すときは、千和のことを 『百年前のお姫様』 と蔑んでいるらしい。3人でいるとき、彼女が彼に 『百年前のお姫様だなんて、この子にもいいところはあるのよ』 と言ったのを聞いて千和はそれを知った。たしかにそのとおりではあるが、傷ついた。
千和のことをそう呼ぶ彼にも、何気なさを装ってそれをばらす彼女にも ―― そのときから、千和は彼らに愛情の一片も持つことができなくなったのだ。
もうなんでもいいから、ふたりでよろしくやっとけば?
つきはなしてしまうのは、冷たいのかもしれないが ―― とにかくその1回で、恋愛はもうコリゴリ、と千和は思ってしまった。
―― コミュ障気味で自分勝手で価値観が百年前な者には、恋愛も結婚も重荷すぎる。そんなものしなくても、この世には楽しいことがいくつもあるし、金をためて高級老人ホームさえ予約すれば老後も安泰。現代日本ばんざい。
このまま潔く、楽しく枯れよう ――
そう決意した千和は、大学を卒業して就職したのちは、ひたすら趣味の絵画鑑賞に打ち込むようになった。婚活など知ったことか、といった態度の娘に焦った母が 『あんたなんかにはもったいないひとよ』 と大絶賛しつつ押し付けたのが、今の夫、崇得だったのである。
どうせダメに決まってるから、と親の顔を立てるつもりでした昭和時代さながらのお見合いで、なぜかOKされてしまい ―― こちらから断ることもできたが、これまたなぜか、そのときの千和は自己評価底辺の好奇心に負けてしまった。
自分みたいな者でもいいと言ってくれるひととなら、これまでドラマの中にしかないと信じてきたような愛ある家庭が築けるかもしれない…… そう、思ってしまったのだ。
お見合い後、数回のデートを重ねても、崇得の印象は悪くならなかった。優しくて気を遣ってくれるし、仕事に真面目できちんとした人だし、ホテルに行こうとも言ってこないから安心できる。
こんないい人と結婚できるチャンスは自分なんかにはもう巡ってこないかもしれない。結婚というものも、1度は体験してみても悪くはない。
恋愛感情ではないかもしれないが、大丈夫。このひととならきっと、お互いに尊重しあってゆっくりと愛を育み、温かな家庭を築いていくことができるだろう ――
そして、千和はプロポーズにすんなりうなずいてしまった。
目論見違いだった。
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