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1-7.再会⑦
「じゃね。母のこと、ほんと助かった」
「ちわちゃんもありがと。ここちゃんに絵本まで買ってもらって」
「ちわちゃん、ありがと」
心良が絵本を両手でかかえてぺこりと頭を下げた。
「どういたしまして。またね、ここちゃん」
「うん。ばいばい! 」
タワマンの前で硝子たちと別れ、千和は自宅に戻る。帰り道のいちょう並木は、行きのようには美しくなかった。
玄関を開け、乱雑に脱ぎ捨てられた夫の靴を揃えて、千和は中に入った。キッチンからゴトゴトと破滅的な音が響いている。
「ただいま」
「おかえり。今日はステーキにしたぞ」
ぱっと見えた肉のパッケージには、3500円のシール。
(それだけのお金があるなら外食したい…… とか、言っちゃダメ)
千和は口の中をきゅっと噛みしめてから、わざと明るい声を出した。
「わーすごい! 豪華だね」
「たまにはね」
いや先週は高級肉で焼き肉にしたでしょ、あなたが勝手に。おかげで1週間、わたしがどれだけ頑張って食費削ったと思ってるの ――
言えばキレられること確実なツッコミを、千和は頭を軽く振って消去した。
料理が趣味の夫といえば聞こえは良いが、その実態は毎週のように勝手にバカ高い食材を買い込み家計を圧迫する、エンゲル係数マジアゲエックスである。ヒーローに成敗されたらいいのに。
(…… とか思うわたしが、性格悪いんだろうな。でも大丈夫。ちゃんとガマンして、うまくやってる。幸せな家庭を、作れてる)
サラダつくるよ、と冷蔵庫から野菜を取り出して夫の隣に立つ。
だが、レタスをちぎりはじめた千和の手は、崇得によって止められた。
「千和…… 」
うしろから抱きしめられた。背中に固いものがあたる。
愛しているなら喜ぶべきシチュエーションだと、千和は思った。でも、瞬時に心を浸すのは、恐怖と緊張。
(この感じだと、潤滑剤仕込む余裕がないかも…… )
身体をひねって、なるべく優しく言う。
「先に、ごはんにしない? 後片付け、残っちゃうし」
「後片付けなんて簡単だろ。僕は夕食後はゆっくりしたいから、今がいい」
「…… じゃあ、シャワー浴びてから」
「そんなのいらない」
崇得の手は、すでに千和の下着を、ジーンズごとおろしていた。
ぺっと唾をはきかけた指先が、股に押し付けられ、荒っぽく動く。痛い。
「おまえは濡らすのが大変だからな」
なにこれ前戯のつもり。
だったら耐えなければ、と千和は奥歯を噛みしめた。
―― 崇得も、少しは歩み寄ろうとしてくれているのだろう。
(たいへん、とか言っていただけるほど愛撫された記憶はまったく、一切、金輪際、ございませんけど!? …… とか、思っちゃダメ )
そこに手をつけ、と崇得の偉そうな声が、千和の耳に響く。こんなところでイヤだよ、と言う間もなく肩を押されてよろけ、千和は流し台のふちに手をついた。
固いものが突き刺さってくる。痛い。泣きそうだ。でも、まだ泣いちゃダメ。
崇得は千和のうしろで激しく動いていた。肉のぶつかる音が響く。みじめで、バカバカしくて、退屈で、痛い。
千和は目を閉じて、念じた。はやくおわれ。
崇得が不意に、止まる。少しして、身体が離れた。
「…… シャワー浴びてくるね」
「ついでに風呂も入っとけよ。メシつくっとくから」
「はぁい」
千和はのろのろと風呂場に向かった。
共働きで、経済的な心配はない。夫が料理してくれる。レスとは無縁。
(状況的に見て幸せなほう。これで不幸だなんて言ったら、あのひとと同じになっちゃう…… わたしはぜったい、あんな女には似たくない)
けど、下手なセックスって、もはや暴力なんじゃないだろうか?
浴槽に湯をためつつシャワーを使う間も、その考えは千和の頭の中に居座り続けた。
からだと頭を洗い終わったころ 『お風呂がわきました』 とAIが知らせてくれた。
浴槽に身を沈めようとして、千和は顔をしかめる。無理やり擦られ続けたところに湯がしみて、ヒリヒリした。
*****
「ヒーローかっこよかったな、公希」
「うん」
「公希はたしか、ブルーが好きだったよね。今日はブルーの見せ場も多くて良かったな」
「ブラックもすき」
「そっか。嬉しいな」
―― 駅直結のタワマン、最上階の一室。
引っ越して2週間、ようやっと慣れてきた洗面台の前で、弓弦は眼鏡を外し、頬に入れたシリコン製の含み綿を取り出しながら甥に話しかけていた。
鏡にうつる公希が、引き締まった顔にかわった弓弦にむかって、深々とおじぎする。
「きょうはどうも、ありがとうございました」
そんなのいいって、と言いかけて、弓弦は口をつぐんだ。
―― 姉が亡くなり、3歳だった甥を引き取って、もう2年。
これまでは、公希の年齢にしては妙にお行儀が良い態度が、まだ心を開いてもらえてないように感じて悲しかった。
(けど…… タカラヅカは、ほめていたな)
考えてみれば、子どもがお行儀よくするのは、認められたいという気持ちもあるのかもしれない。
「えーと。ちゃんと、お礼がいえて偉いな、公希」
こんな感じでいいんだろうか……
とまどいつつも、なんとか、ほめことばをひねり出すと、鏡のなかで公希の目が、驚いたように丸くなった。
―― どうやら、正解だったようだ。
弓弦はほっとしてデブ変装用の装備である肉襦袢を脱ぐ。
しゃがんで、公希と目をあわせてみた。今日、10年以上ぶりに会った同級生がしていたように。
「でもな、公希。おじちゃんが公希をショーに連れていったのは、そうしてあげたいと思ったからだ。おじちゃんのほうこそ、一緒にきてくれてありがとう。喜んでもらえて、嬉しかった」
公希は驚いたような顔のまま、弓弦をじっと見ている。
それでも、これまでの無反応に近いおとなしさと比べれば進歩だ、と弓弦は思った。
あせらなくても、ゆっくりでいい。きっとまだこれから、公希とは長い付き合いになるのだから。
リビングのテレビから、ヒーロー戦隊番組のエンディング曲が流れ出す。
「よし、公希。一緒に風呂、入るか」
公希を抱き上げて浴室に運ぶ弓弦の脳裏には、心良に向けられた千和の優しい表情があざやかによみがえっていた。
もう、30歳を過ぎた。きっと同級生の中には何人も、子育てに四苦八苦している仲間がいるはずだ ―― ひとりではないと思うだけで、なにかが変わる。
(それにしても、きれいになってたな、タカラヅカ)
つけっぱなしになったテレビの中では、弓弦自身、未だに慣れない決め顔をした弓弦が、ヒーロー・ブラックに変身していた。
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