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父は泣いたらしい
母よりかなり前に父親も亡くなってるのだが、その父親が生前言ってた事があって「父親(祖父)が死んでも泣かなかったが、母親(祖母)が死んだ時に帰りの飛行機の中で、泣いた」という話だ。
その時感じたのは同じ様な違和感だ。
なんで帰りの飛行機の中で泣いた事をややセンチメンタルちっくに息子に聞かせるのか、しかも、演技としてはやや下手である。
まぁ、素人なのだから演技は下手で当たり前なのかも知れない。
我々はよく役者の演技を上手いとか下手とかアレコレ批評するが、その根底に上手い演技はリアリティが違うとか考えてないだろうか?
でも、実際の我々の演技は下手なのである。
間が悪く言いたい事の半分も伝わらなかったり、キレもなく場合よってはゾッとする。
それがリアリティだとすれば、役者の上手い演技はリアリティがないとも言えるんじゃないか?
つまり大根役者のヘッタクソな演技こそリアリティがあるのかも知れない。
まぁ、兎に角その下手くそな芝居を見て私が感じたのは、あぁ、こんな父親の様な人間でも母親(わたしからすると祖母)が亡くなったら泪を流すのか、なら私はおそらく泣くであろうし、泣かないまでも激しく動揺するに違いない。
と、思っていたのだが実際は動揺すらしなかった。
などと言うと某お笑い芸人からサイコパス自慢と揶揄されそうだが、そんな事もないだろう、何故ならわたしは涙脆い所があるからだ。
人の小説やらなにやらを見て心を動かされるし、泣きそうになる事もしばしばである。
フィクションで泣いて現実で泣かないのは逆ではないかと思われるかも知れないが、フィクションとはいえその様なシチュエーションは世界のどこか、あるいは歴史のどこかで起こりうる事であるからまるきりフィクションとも言い難いだろう。
逆に母親の死はわたしにとって悲しくなる要素がなかったという事だ。
仏教では全てが原因と結果で出来ていると説かれる。
更に人は無限の生命を輪廻しているとも説く。
だとしたら我々には無限の過去がありそれらの時代から積もりに積もった原因は抜きん難い結果となって今という瞬間に押し寄せるに違いない。
それを運命と呼ぶならたしかに抗うのは難しい。
しかし母はおそらく時に抗い時に流されながらそれでも最悪を避けつつ人生を生き切ったに違いない。
その死顔は満足とは言えないまでも後悔の色もなく驚いた様に虚空を見つめていた。
天国とか、地獄などは実際には存在しないんだろうが、死のその先はあるんだろう。
ただその先に行っただけの話だ。
とは言え、そこで僧侶を呼んで経をあげて貰おうとは思わない。
なぜなら、本当に亡くなった人が成道するほどの法力があるのなら、生きてるうちにその力を使うべきであり、それができないなら死んでから経によって良い所に行きますよというのも嘘である。
それとも、生きている間には功力がないが死んだ人には効き目のある経を仏陀が残したというのだろうか?
そんな教えやら文献があるのなら是非拝んでみたいものだ。
日本に於いて仏教と死が近しい存在になった背景には念仏宗が大きく関わっていると思う。
念仏は仏教を知らない人でも経と言えばナンマイダーというくらいメジャーというか広く流行った仏教だがその内容を良く知ってる人はいるだろうか?
簡単に言うと「この世(娑婆世界)は苦痛にまみれてるいてどうしようもないので死んで極楽浄土に行きましょう、そこでは阿弥陀如来が待ってます」という教えだ。
つまり死んだ方が良いってこと。
仏陀はそんな事が言いたかったのか?
彼は自らの中に尊極の生命がある事を悟り、悟っただけでなく体現した人ではないのか?
つまり最高の生き方を教えた人とも言える。
真逆じゃないの?
ともあれ、念仏が流行ったおかげで死と仏教が近しいものと認識される様になってしまったと推察する。
もしかすると、昨今の自殺の多い現状や日本人の自殺好きとも言える文学や芸術やアニメや諸々の傾向というのも辿っていくと多くの日本人の先祖が念仏を信じていたからなのかも知れない。
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