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倫太郎は、自分を見る姉やの優しい眼差し、手の温もり、抱っこされた時の甘い匂い、子守唄を歌う時の愛しさで溢れんばかりの声を思い出した。
あれが母の愛というものなのか……。
倫太郎はその事実に、心がのびやかに解き放たれていくような感覚にとらわれた。
「姉やは今どこにいる?」
もう一度会いたい、そう思った。
「約束の三年が過ぎ、お母様はあと一年だけ一緒にいたいと大旦那様に願いましたが叶いませんでした。立派な嫁ぎ先が用意されましたが、『子供はぼっちゃん一人で十分。ほかに産む気はない』とおっしゃって辞退され、ご自分の遠縁で子供が四人いる中年男の元に、苦労を承知で嫁いだそうです」
しばらく間が開き、お竹さんはつらそうに続けた。
「しかし生活は苦しく、継子にいじめられ、数年でお亡くなりになったと聞きました」
倫太郎はそれを聞いて、がっくりと肩を落とした。
「ぼっちゃんは母親の愛情をしっかり受けているのですよ」と、お竹さんは言った。
「私は、どうしたらいい?」
倫太郎は、まるで子供に戻ったように途方に暮れていた。
「そのお気持ちを、奥様に正直にお話ししてみなされ」
お竹さんはそう言うと、帰って行った。
その夜。
倫太郎が寝所の奥座敷に行くと、控えの間の行灯はまだ灯っていた。
「糸子」
倫太郎は襖の向こうに声をかけた。
「はい。旦那様」
少し驚いたような声だった。
「こちらに来て、私の話を聞いてくれないか」
静かに襖が開く。糸子は恥じらいを帯びた、優しい笑みを倫太郎に向けた。
その日から、倫太郎と糸子は名実共に夫婦となった。
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