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「母さん、冗談でもそんなこと言うのはやめてください。糸を離縁するつもりはありません。それより、先日の芝居見物はいかがでしたか?」
倫太郎が手配してやった芝居見物を兼ねた東京旅行の話を出すと、母は相好を崩した。
「とても良い旅でしたよ。昨日もお茶のお稽古で皆様に、倫太郎さんは孝行息子で羨ましいと言われました。また、お願いしますね。そうだった。お由さんに用があったんだわ」と母は立ち上がると、奥をまとめる女中の名前を出してご機嫌で去って行った。
「大奥様にも困ったことで……」
苦笑いしながら佐吉は言う。
思えばあの女性も不憫な人だ。親の定めた相手に若くして嫁いできたら、夫には母親の知れない子供がいて、「跡継ぎだから育てろ」と言われたのだ。その時の心情を思えば多少なりとも恩はある、そう倫太郎は思えるようになっていた。
夕刻になり、倫太郎は妻が伏せる奥の座敷へ戻った。糸子は身を起こし、中庭の桜を眺めていた。
「糸、具合いはどうだい?」
「旦那様……」
糸子は慌てて身を正そうとしたが倫太郎はそれを押し留め、「冷えるといけないから、もう閉めるよ」と縁側との境の障子を閉めた。
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