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そんな中、お竹さんがご機嫌伺いに姿を見せた。お竹さんは倫太郎の部屋を訪ねると一対一で向き合った。
「旦那様、奥様と床入りどころか、お手を触れてもいませんね」
唐突にお竹さんが言う。図星だった。輿入れしてから半年、糸子は控えの間で休んでいた。
「糸子が言ったのか?」
「奥様はそんなことお漏らしにはなりません。しかし、婆の目にはわかります。奥様がお嫌いですか?」
「そんなことはない」
倫太郎は首を横に振る。
「では、なぜ?」
お竹さんに問われ、倫太郎はぽつりぽつりと話し出す。
夫婦の情愛、家族の情愛がわからないこと。家族を持ち、親になるのが怖いこと。
倫太郎は糸子を憎からず思ってはいた。良い家柄の娘であることを鼻にかけず、自分に触れようともしない夫に文句も言わずに従ってくれている。しかしこれまで、自分を愛してくれた人は少なく、また自分が愛した人は去って行ってしまう。不安だったのだ。
その一方で、若い使用人が所帯を持ち、子供に恵まれ幸せそうにしている様子に憧れに似た思いを抱いていた。
「ぼっちゃん」とお竹さんは昔の呼び方で倫太郎を呼ぶ。
「ぼっちゃんは、母親の愛情を知っておいでです」
お竹さんがまっすぐな眼差しで倫太郎を見つめる。
「ぼっちゃんの生みの母が大奥様でないのはお気づきですね」
お竹さんは見抜いていた。否定しないのが答えだった。
「では、ぼっちゃんの本当のお母様がどなたかご存じですか?」
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