5人が本棚に入れています
本棚に追加
バウムクーヘン・エンドレス
友人の結婚式は、三次会でようやくお開きになった。懐かしい旧友たちの中にはさらに杯を交わしたそうにしている者もいたが、残っていたメンバーの大半が子供の世話や仕事など、明日に何がしかの予定を抱えていたため、その意見はやんわりと退けられた。店を出た頃にはもう日付は回っていて、繁華街の真ん中にもかかわらず、通りを歩く人の姿は疎だった。柄にもなく酒が進んでいたので、張り出し看板の安っぽい照明がいつもより俺の目に染みて、妙に苛立つ。
終電はとうになくなっていたので、酔いが回ってもたつく足を懸命に動かし、どうにかタクシーを捕まえる。運転手は俺にまとわりつく強烈な酒の匂いを不快に思ったのか、すこし眉を顰めた。
会社から独身社員向けに貸し出されている社宅が、俺の家だ。引き出物に両手を塞がれながら階段をふらつきながらどうにか上がり、自室の前に辿り着く。一先ず引き出物をコンクリートの床に直置きし、鞄から鍵を取り出すと、俺は自宅の錠前を開けた。
自宅に入り、引き出物を投げ捨て、俺は玄関に倒れ込む。そして、傍に直置きした引き出物の袋を、所構わずあさり始めた。取り出したのは、高級そうな雰囲気を感じさせる、掌サイズの洒脱な箱だ。俺は箱の保全などお構いなしに、乱暴に包装を破いていった。フィルムを破り、テープを力任せに引っ張る。すこし見た目が汚くなった蓋を、そっと開けた。中に入っていたのは、これも瀟洒なバウムクーヘン。
伝えないという選択をした理由は、未だに良くわからなかった。今の、”結婚スピーチを任せられるくらいの存在”という設定を守りたかったからなのか、あいつに自分は到底相応しくないと感じた劣等感からなのか。ただ、今更考えたところでどうにもならないし、おそらく最初からどうにもならなかったのだ。どうしたって、俺はあいつに思いの丈をぶちまけることを恐れた。
床にうつ伏せになって這いつくばりながら、俺は手でバウムクーヘンの層を、一つ一つめくっては、それを口に運び、咀嚼していく。その度に、脳内に眠っていたあいつとのフィルムが、鮮やかに現像されていった。目からは、緊張が緩んだことにより決壊が壊れたのか、とめどなく涙が溢れてきた。
あいつとは、その文字の通り、生まれた瞬間からの付き合いだった。偶然同じ病院で生まれ落ちたことがきっかけで、俺とあいつの母親はママ友として意気投合した。育児の苦労を相談したり、共有したりする仲だったそうだ。病院から退院しても、住んでいた場所が近所だったため、家族ぐるみの付き合いが続いた。あいつの家族はとても優しい人たちだったし、それを受け継いだあいつも、とりわけ優しい奴だった。
そんなあいつが、モテないわけもなく。小学生の頃だっただろうか。俺に「告白された」と相談を持ちかけてきたのだ。ありふれたものだったが、誠実な言葉を贈られたのだったと思う。その時、俺はあいつにかける言葉に、初めて迷った。
結局、告白を受けたあいつだったが、確かその時は、2ヶ月も持たずに、相手から振られたらしい。「優しすぎる」という、なんとも理不尽な理由で。
でも、それくらいあいつは、誰にでも優しかったし、その後も、あいつは度々告白されて、彼女を作っては、同じような理由で振られた。俺が思うに、あいつは本気で人を好きになったことがなかったのだ。だから、告白を受け入れたとして、そこに相手への気遣いや思いやりはあっても、愛はなかった。
振られた翌日、決まって俺とあいつは放課後にファミレスで駄弁った。約200円のドリンクバーを、激励だと称して奢るのが、密かな俺の楽しみだった。
どこを直しゃいいのかなと、あいつはいつも俺に聞いた。それに、そのままでいいんじゃねえのと返すまでが、いつものルーティン。あいつのありのままの魅力など、俺だけが知っていればいいと思っていた。
働きはじめても、俺とあいつの縁は切れなかった。たまに、どちらからともなく連絡しては、現地集合で店を探して、良さそうな店を見繕って入店する。そこで、適当な益体のないことを、酒の勢いを半分借りながらだらだらと話す。
しかしその日は、いつもと違った。あいつが居酒屋の個室を予約したから飲まないかと、突発的ではない飲みの約束を入れてきたのだ。合流したそばから、いつもと違い、ソワソワしているあいつ。なんとなく、嫌な予感がした。
すきなひとができたんだ、と、あいつは辿々しくいった。一瞬、俺は表情筋が引きつったが、慌てて取り繕い、続きを促した。
そのあとは、トントン拍子だった。意中の娘への告白は成功、相手の親への挨拶、プロポーズ、式の準備と、あれよあれよと話は進み、俺は結婚式のスピーチ役を任された。
木を模した菓子、バウムクーヘンの年輪は、その関係が年輪のように何年も続くようにという願いを込めて、ゲン担ぎとして招待者に配られるらしい。……でも、あいつと積み重ねた年月は、俺の方が確実に多い。
もし、伝えていたなら。優しいあいつなら、きっと俺の想いに応えようとしてくれたはずだ。俺は、自分からあいつを振ったりなんかはしない。でも、その未来は、多分、不毛だ。あいつにそんな思いなんて、天地がひっくり返ってもしてほしくはなかったし、第一、俺が嫌だった。
最後の層を広げ、惜しみつつ口に放り込む。
バウムクーヘンだって、全部食べてしまえば、なくなる。ただそれだけの話だ。
今日、あいつを好きだった俺は、バウムクーヘンと共に俺の胃の中に消えた。この感情も、じきに消化され、跡形もなくなるだろう。
数年後。あいつが結婚したこともあり、以前のようにこちらから気軽に用事の約束を取り付けるのは憚られた。
しかし、あいつは、あいつのままだった。
某日、深夜の2時。あいつから突然呼び出しがあり、寝る用意を終えていた俺は急いで身嗜みを整えて待ち合わせ場所に向かった。あいつは不安そうな顔をしていたが、俺を見つけると、深呼吸をして、浮気されちまった、と一言だけ言い、乾いた笑いを浮かべた。
とりあえず適当な店に入り、お互いに酒を注文したが、それが運ばれるや否やあいつはハイペースで酒を煽りはじめ、つまみが残りわずかになる頃にはかなり前後不覚になっていた。
徐に、結局さ、お前がいないと俺、何にもできないわ、とあいつが呟いた。いつもありがとな、と、はにかんで笑う。
…….途端に、胸にえずきが襲ってきた。突然蹲った俺をみたあいつが、大丈夫か、と声をかけてくる。俺は無言で吐き気に耐えた。様子の変わらない俺に、あいつが席を立ちこちらに近づき、こちらに向けて手を伸ばしてくる。背をさすって気持ち悪さを気休めでも落ち着けようとしてくれているのだ。しかし、それは逆効果だった。さらにひどくなるえずきに俺は頽れて、しかしそれをやり過ごそうとする。……そして、それを止める術があることに、俺は思い至った。バウムクーヘンと共に胃に押し込んだ感情が、暴れまわっているのなら、もう方法は一つしかない。
「すきだ」
背を撫ぜていた手が、動きを止めた。それと同時に、嘘のようにえずきが消え去る。俺は脱力して、座敷に全身を預けた。
いつからなのかと、あいつは俺に問う。俺はすこし逡巡してから、わからない、と答えた。座敷に沈黙が流れる。…….本当に、ありがとうな、と、あいつはひどく申し訳なさそうな顔をして、言う。俺が一番見たくはないとおもっていた、そんな表情だった。
最初のコメントを投稿しよう!