1リラと少女と医師と

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1リラと少女と医師と

 過剰摂取で搬送されてきた少女は驚くほど細く、ひどく冷たい。  医師が聴診器をその薄く危うい胸元にあてて心音を確認しようとしたとき、心拍数がまるですすり泣きのように聞こえたほどに。  いや、あれは少女が秘めた涙がもたらす囁きだったのではないかしら、とやけに非科学的なことを医師は思う。幸いにも処置がうまく行ったことで一命をとりとめた少女は白く簡素なベッドですうすうと、寝息をたてている。  薬剤を過剰摂取したせいで苦悶を与える胃洗浄を受けざるを得なくなった患者は多々いるものの、少女は意識が薄れているようで悲痛な声をあげることもなく、ただピクピク、ピクピクと小枝の如きカサカサに乾いた指を細かく動かしているだけだった。  痙攣ではなかったな、と医師は少女のカルテを見返して医師はひとりごちる。  唯一の所持品であるスマホの電話帳から、自宅の番号をピックアップして看護師が連絡をとってはみたが母親らしき耳が痛くなりそうな女の声が「そっちで適当に治してください、こっちは大損で大失敗なんだから」などと言って切られてしまったらしい。  大損とは、どういう意味で言い放ったんだろうか。  まだ声も聞いていない少女からは確かめることもできず、医師はひとり、医局にあるスプリングがところどころ壊れたソファへ横になり、束の間の仮眠をとろうと目を閉じた。  なぜか薄紫の、甘く涼やかな香りがする花が一面に咲く夢を見た。  空が白んだ頃、看護師から少女が目を覚ましたと連絡がはいり、医師は急いで病室へと駆け込む。  薄暗く、寒い四人部屋の病室は縁起が悪いからと、移りたがる患者が多いせいで、少女は事実上個室になったそこで横たわったまま、少女は顔だけを医師に向けていた。  気分はいかがですかと、通り一遍な問いかけをすると少女は「ママは来ないんでしょう、きっとそうだわ」と涙ぐむ。 「これまでかかったお金をどうやってママに返せばいいかしら、夜のお店で働けばいいかしら。それともいっそのこと、保険金で賄おうかしらと考えていて……」  大損だ、と言っていた電話の向こうにいる女を、医師は想像しようと試みる。  だが、追い詰められてかぼそく、脆くなった少女を治す方が何より優先だと、かぶりを振って打ち消した。 「私が弾きたい曲よりママが弾きたかった曲を弾かされ、私には楽譜を選ぶ自由さえないんです。本当は、本当は……」  啜り泣く顔を見られたくないらしく、少女は布団をかぶって身を縮ませた。看護師に任せることにし、医師は一旦、病室を出た。  命を棄てる、棄てるほど追い詰めることのほうが遥かに罪深いし、言葉は悪いが大損ではないのかと憤りを胸に秘めて。 「あの患者さん、まだ学生さんですよ。スマホのケースに学生証が入っていたんです、音大の附属高校で、結構レベルが高いところですよ。好きなことして、楽しむことがいちばん必要な時期に追い詰められて……何が大損ですか、ふざけるなって話ですよ」  ぶつくさと怒りをあらわにする看護師の横で、医師は静かに窓から見える薄紫色の花を見上げる。 「どうかしましたか?」 「ああ、あの花……」 「ライラックですよ、先生。香水やアロマオイルにもよく使われるんです、いい香りの花が咲くんですよ。それより、あの子に施すケアに関してですが……聞いてます?」  ああ、と医師は生返事をして花を見上げる。  少女を心配しているかのように揺れる花は、のびのびと咲いて、ぼんやりと春霞に包まれた空を目指していた。
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