2僕らのルーティン

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2僕らのルーティン

 物語がどうも頭に浮かばないまま時間だけが過ぎていくため、気分を変えるかとのっそり文机から立ち上がり、背伸びをしてはみたものの出歩くことにますます不精になっていく自分に気づかされる。  理由はひとつ、三年ほど前から流行している感染症対策を余儀なくされているからだ。  しかも動画サイトを見れば国内外の絶景が手に取るように、しかも丁寧な説明つきで楽しめる昨今に、わざわざ感染する危険を冒してまでも外出する必要などないか、とついつい部屋でこもってしまったこともその延長線上にある。  屁理屈ですよ、と箪笥の上にあるガラスケースへ大事に保管された市松人形がコロコロと鈴が鳴るような声で笑いながら言う。  うるさいね、と僕はガラス越しに彼女の小さな、けれど黒く分厚い前髪に覆われた額を人差し指で小突く真似をする。  まあ、意地悪だこと。  小さな紅い唇をとがらせ、黒い目を見開いた彼女の仕草に愛おしさを感じながらも、このやりとりは決して普通ではないということはもちろん心に留め置いている。ゆえに、誰にも打ち明けてはいない。  三年前、感染症が怖くて地方へ引っ越すと決めた近所の若夫婦が「荷物になるし、趣味じゃないんです。なんだか気味が悪くて」など言い訳がましく僕に言いながら、ゴミ集積所へ捨て置かれた彼女が悲しそうで、なんだか放っておけずに、こっそりと持ち帰ったことがいわば僕らにとっての「馴れ初め」みたいなものだ。  田舎暮らしを満喫し、滅多に戻ってこない両親のかわりにひとりで平家建ての小さな家に住んでいる僕を、どうやら同じ匂いがする生き物と彼女は認識したらしく、気分が塞いでいれば自分が見聞きしてきた話を聞かせてくれて、時にはそれを題材に物語を書いては小遣い程度の原稿料を貰って糊口を凌いだ。  とはいえこれだけではやはり財布が寂しく、けれども執筆を生活の中心にしていることで、派遣会社が紹介する事務誌でのファイリングや倉庫で送り状を延々と印刷する単純かつ脳髄を切り替えてくれるような仕事へ出向くことはある。  悲しいかな、原稿料よりも派遣で得る収入の方が多いため自分はまだまだ不足しているところが多々あるものだ、と痛感させられる。  伸びているだけじゃお店屋さんは来なくてよ、マスクしてたまにはおでかけなさいなと余計なひとことを耳に入れられ、今度は僕がむっとする。 「おいおい、今から散歩ついでにコンビニでも行こうか、と思っていたところなんだから水をさすんじゃないよ。君にも団子か饅頭でも買ってきてやろうかと考えていたが、予定が変わりそうだね」  まあひどい、私だってたまには新作スイーツっていうものを試してみたいわと人形は紺地に菊の花が描かれた振袖をパタパタと揺らし、駄々をこねる。  その仕草がかわいらしくて、つい吹き出してしまう。  どうやら僕は、彼女には敵わない。やや非日常な暮らしではあるが、彼女との時間は優しくあたたかく、やわらかい。捨て置いていった家にいたときよりも今が楽しいと言うのだから、まんざらでもないようだ。  もし彼女が温もりある、生身の少女であったら僕はここまで心を開くことはなかっただろう。人のかたちを模して、そこへ魂がひっそりとやどったものであるからこそ、互いにちょうどいい距離をうみだして、和気藹々と過ごせるのかもしれない。  薄暗い我が家は、建材やアロマオイルが香る前の家より落ち着くから気に入っていると、彼女は言う。  心に宿るあたたかくほんのりと優しい感情は恋慕かどうかと訊かれれば口ごもるかもしれないが、特に決めつけることでもない。  そう、僕は考えているが……彼女はどうであろうか。 「わかったわかった、君には負けるよ。散歩ついでにコンビニで珍しいものがあれば買ってこよう、ただし期待はしないでおくれ。僕は疎い方だから」  よろしくてよ、と弾んだ声が、ガラスケースごしに返ってくる。 「戻ったら喉が渇くだろうから、お茶は淹れておいて欲しいんだ。どこで習ったか知らないが、君が淹れる紅茶は香り高くて美味しいからね」  ガラスケースの上面をスポッと外し、そっと彼女を抱き上げて、日焼けした畳の上へ立たせると「都合がいいわねえ」とむくれた声をさせつつ、懐から白い襷を出してぱぱっと手際よく、袖をまとめはじめる。  淀みのない所作に、僕はいつも見惚れてしまう。 「さ、早く行ってらっしゃいな。夕方までに戻らないと、お夕飯もなしよ。珍しいものがなかったら、いつも買ってきてくださるレジ横のお大福で結構よ。そうそう、月餅や羊羹でもいいわね」 「承知しました奥様、では行ってまいります」  マスクをして、恭しくお辞儀をすると彼女はポッと、小さな頬を桃色に染めた。  いいから忘れ物しないようにね、と照れ隠しに言いながら。
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