3署名

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 空気を読みすぎて窒息したそうなんです、と患者のひとりがぼんやりとした眼差しでオフホワイトのペンキが塗られた壁を見て、静かに言う。  要領がよく計算高い同僚たちによっていいように使われた二十代半ばに差し掛かる女性は、ふうと息をゆっくり吐いて、壁と同じ色をしたテーブルに置かれた、やはり同じ色に揃えられたティーカップに注がれているハーブティーを飲んだ。  彼女が好きなレモングラスのエキゾチックで爽やかな香りは、夏を思い起こさせる。  会社でも家でもいい子を、もとい「都合の良い子」を演じてきて、求められるがままに仕事や家事へ勤しみ、気がついたら自分はどんなものが好きでどんな性格を持っていたかも忘れていたと、彼女は言う。 「会社からも、自宅からも見舞いには来ないでしょうね。今頃どこに何があるかも分からず、あたふたして、そんな暇なんかないと思いますし。あいつがいないせいで、なんて自分たちを棚に上げて悪口を大声で捲し立てているでしょうね」  話を聞きつつ、カウンセラーは同僚と上司であると名乗る、切羽詰まった表情を浮かべた人々が今朝、病院の受付に押し寄せて彼女を出せ、退院させるんだと叫んでいたので守衛に追い出され騒動を思い出す。  混乱を招くため本人には言わないでおいてほしい、と主治医に釘をさされたため知らせてはいない。  勝手に入院なんかして、出勤しながら治療できるだろう、社会人の自覚がなさすぎだと喚く同僚らしき女はどこか視線が泳いでいて、やましいと感じている様子が手にとるように明らかだった。  何よりも、自分たちが追い詰めてきたくせに、彼女が言うとおり堂々と棚に上げている。  なんて勝手な奴らなんだと呆れてしまい、ますます彼女に会わせることはもちろん、他の患者にも悪影響なため来訪した際は外で追い返すしかないと、病院側でもそう取り決めた次第だ。  それでも電話は鳴り止まず、まだ駐車場で粘っている同期らしい、小柄で声が妙に大きく威圧的な女も、疲れているのかたまに立ったまま船を漕ぎながら、どんよりとした目つきで守衛を睨んでいたと、外掃除に出て戻ってきた看護師がぼやいていた。 「おかげさまで、日に日に深呼吸が上手くなってきました。先生をはじめ皆さまのおかげだと感謝しています。家にいるよりも、入院しているほうが落ち着くなんておかしいですよね」
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