競争(試作品1:最後の○○)

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 キーンコーンカーンコーン  三時間目の授業が終わった。午前最後の休み時間である。授業はまだ一時間あるのだが、この時間になると、決まって俺は空腹を覚える。それでも俺は気力を振り絞り、今日もあいつとの戦いに挑む。  待ち合わせ場所はグラウンド。俺が約束の場所に到着した時には、やつは寝転び、退屈そうに俺を待っていた。 「おー、黒石(くろいし)。遅かったじゃん。補習受けてたの?」  余裕のある表情を浮かべて缶コーヒーをすすっている。この男が、俺の対戦相手の白田(しろた)だ。 「馬鹿言ってんじゃない。授業が長引いたんだ。なにしろ数学だったからな」 「あー、長久手の数学ね。あいつの話は長くて困るね~」  白田とは中学一年からの付き合いである。俺と白田は、何かにつけて勝負することが多かった。毎朝の学校への駆けっこ競争に始まり、弁当の早食い、テストの点数、レーシングゲーム、等々。傍からはまるで小学生かと思われるくらいに、俺と白田は互いの勝負に熱中していた。勝ったら笑い、負けたら泣く。そんなことを繰り返してはや三年。同じ高校の一年生となった今でも、俺と白田の勝負は続いている。 「それはそうと、お前こそ、こんなに早く来て。ちゃんと授業に参加したのか?」 「あー、大丈夫だお。俺のクラス、自習だったし」 「そう言って、先生が授業放棄したんじゃないのか?お前のクラス、もっぱら授業態度が悪いって評判だしな」 「お~、その通りっ。さすが黒石先生だねぇ」 「おい、その言い方はやめろ。俺だってそんなに頭は良くないからな」  高校生になってからは勉強の難易度が上がり、正直俺も白田も、学習内容についていけていない。しかしながら、この高校のテストは簡単で、さすがに赤点で留年なんてことはないだろう。もっとも、白田は赤点ギリギリであったらしいのだが。 「それはそうと。もう一人のやつ遅いねぇ~」  本気の勝負には、中立の立場から勝敗を判定できる“立会人”が必要である。その立会人が来ないと、俺たちの戦いが始まらない。 「ひゃ~、ごめんごめん。お待たせ、二人とも」 「中間(なかま)、遅い~。何してたの?」  俺が到着してから遅れること約三分。立会人役の男・中間が、ようやく現場に到着した。  中間とは、中学は別だったので、高校からの付き合いとなる。少しばかり頭が良く、この高校の特進クラスに在籍している。どこか自分の考えにこだわりがあり、周囲からは変人呼ばわりされているらしい。少しばかり頭が良くても、結局は俺たちと同じ穴のむじなであるということか。  そんなこんなで、中間は本来、俺たちのような下等生物と混じり合うはずのないキャラなのだが、入学して間もなく意気投合し、現在に至っている。 「悪い悪い。僕なりにリサーチしていたものでね。どうしたら二人の戦いが面白くなるのか、その演出などを考えていたんだ」 「余計なことは考えなくていい。中間、お前は俺たちのレフェリーを務めていればいいんだ」 「そうだお。あと五分しかないんだから。さっさと勝負始めちゃお」  中間の立ち会いのもと、俺と白田の戦いが始まった。 「じゃ、二人とも位置について」  中間の指示のもと、俺と白田はともに構えた。そして次なる合図を待つ。  この時からすでに、二人の戦いは始まっている。時々は相手の方に目をやり、相手の様子を窺う。そして時には、舌を駆使した前哨戦になることもあるのだが、この日は時間がないこともあり、互いに静かな出方であった。 「用意…」  俺は自分のことに集中した。次の瞬間、相手を上回る加速度を叩き出すことができるように。俺は元来、先行逃げ切りが性に合っている。駆けっこでも、テストの点数でも、レーシングゲームでも。俺が勝つパターンの大半は、俺がロケットスタートを決めた時。ロケットスタートを実現できれば、俺の勝率は九割を超える。圧倒的優位になれるのだ。 「スタート!」  戦いの幕開けを告げる号砲が轟いた。  動き始めはほぼ互角。くそ、ロケットスタートとはいかなかったか…だがまだ勝負は始まったばかり。ダッシュをかけられる余地は十分ある。まずは最初のコーナーへ。  第一コーナーに足を踏み入れたその瞬間。 「やばい」そう俺は感じた。  コーナーの感触が、俺の苦手なウェット気味だったのだ。水気を含み、ぬかるみで足を取られてしまう。しかも踏めば踏むほど、表面から水があふれ出し、ぬかるみに拍車がかかる。おまけに辛くて苦い…思いもする。  昨日の雨の影響で、グラウンドは所々がぬかるんで柔らかくなっていた。過去の駆けっこ勝負でも、雨が降った次の日では、俺の勝率は二割程度に落ち込む。まずい、雨があったことを忘れていた。  かくして、俺は水分地獄にはまり、すっかりペースダウンしてしまった。ロケットスタートどころの話じゃない。むしろ逆に、ロケットスタートを決めたのは白田の方だ。やつは表面からあふれ出る水分をものともせず、涼しい顔で歩を進めている。  白田にロケットスタートを決められると、俺の勝率は限りなくゼロに近い。一度だけ、その劣勢をひっくり返して勝ったことがあるから、完全なるゼロではないのだが。  それにしても、まずい。これは本当にまずい。俺の口に合っていない。 「あらぁ、黒石先生。今日は不調ですねぇ~。このまま勝っちゃいますお」  白田が余裕の表情で、俺に声をかけてきた。 「大根おろしは、嫌いでつか?」 「ば、馬鹿言ってんじゃない。あんなものに俺が…」  手こずっている。俺は大根おろしが苦手だ。まあそんなことは、どうでもいい話だが。 「じゃ、先生。おっさきー」  白田は慈悲のかけらも見せず、次のコーナーへ向けて走って行った。  一方の俺は、白田の独走を許したことへのむかつきと、胃腸のむかつき。二重のむかむかに苛まれていた。際限のない水分だけでなく、辛みも絡みついてくる。おまけに涙の塩加減も加わり、俺の口内はなんだか大変なことになっている。  それでも白田から遅れること約一分、俺も第一コーナーを通過した。  続いては第二コーナー。  先程の水分まみれの第一コーナーとはうってかわり、第二コーナーは、カラッと揚がった表面となっている。日差しが強くなり、グラウンドの表面も所々乾いてきた。よし、これなら俺の足が進む。  大根おろしの時はだだ下がりだった俺のペースも、揚げ物の前では一気に上がってきた。同時に、水分地獄で萎え気味だった胃袋も、油分を前にして活発になるのを感じる。この調子なら、最初の遅れも取り戻せるかもしれない。 「白田、待ってろ」  俺は夢中になって、揚げたての表面にかぶり付いた。口の中に、油と肉汁があふれ出す。う、美味い!これは鶏肉だ。鶏の唐揚げは、俺の大好物なり。ナイスチョイス!  水を得た魚のように、俺のスピードがぐんぐん加速していく。かたや白田の方は、油物が苦手なのか、第一コーナーで見せていた勢いが無く、どんどん失速している。 「よう、白田くん。さては揚げ物は嫌いかね?」  俺が三個の唐揚げを平らげている間、白田の唐揚げは一個しか減っていない。 「そ、そんなわけないじゃないすか~、黒石せんせ?」  白田は平静を装っているつもりなのだろうが、いかんせん語気が安定していない。揚げ物が苦手であることは、どうやら図星のようだ。 「嘘はいけないよ~、白田くん。俺がこのコーナーに到着してから、君の唐揚げは、二個しか減ってないじゃないか」  弁当を見つめる白田の両目が、ぎょっと見開いている。予想外の俺のスパートぶりに、焦りがあることは明らかだ。そんな白田を後目に、俺は引き続き、自分の戦いに没入した。  ロケットスタートだけじゃない。スタートで失敗したとしても、俺は取り返すことができる。最初は六個あった唐揚げも、気付けば残り一個となっていた。そして白田の唐揚げもあと一個。そう、俺は白田に追い付いたのだ。  最後に残った唐揚げを、誰が先に完食するのか。答えは明白であった。油地獄でペースを乱した白田ではなく、大好物で復活を遂げた俺の方である。 「んじゃ、白田くん。お先~」  俺は最後の唐揚げを口に入れ、ものの十秒で飲み込んだ。第二コーナーは俺の完勝。このままゴールまで突っ走る。  だが、最後のコーナーが待っていた。  最終コーナーでは、厚切りの豚ロース肉とサクサクの揚げ衣、ふわふわに熱された溶き卵、そしてふんわり炊き上がった白飯が待ち構えていた。そう、これはカツ丼である。  俺はカツを一口頬張った。う、美味い!分厚くカットされた肉のなんと美味いことか。揚げ衣の表面からあふれ出す、肉汁混じりの油もたまらない。  続いて溶き卵とともに白飯を一口入れる。あ、甘い!だし汁で溶いた卵には、ほのかな甘さがある。炊き立ての米の甘さも良い。これなら食が進む。休み時間が終わるまでには間に合うかも。  しかし、事はそんなに簡単ではなかった。もとより濃厚な具材の四重奏に加え、先程食べたばかりの鶏の唐揚げが、胃の中に貯まっている。しかも唐揚げと豚カツは、ともに油物である。二重の油は容赦なく、俺の胃を痛めつけてくる。程無くして、俺はペースダウンに陥った。  その間に、唐揚げで苦戦していた白田が追い付いてきた。白田もまた、胃もたれを覚えているはずなのだが、ここへ来てまたペースを上げてきている。  よく見ると、唐揚げの段階から、白田は白飯を攻略していた。豚カツは後回しにし、唐揚げをおかずに、白飯に着手していたのだ。その結果、白田の白飯と溶き卵は無くなり、残りは豚カツだけとなっていた。  かたや俺は、カツ丼を単体として真っ向から攻めた結果、ご覧の通りの苦戦である。厚切りになった豚ロース肉の圧迫感、油を纏った揚げ衣のしつこさ、心地良さからうんざりへと変貌した溶き卵の甘さ、そして水分と油分を吸い込み膨張した白飯のボリューム感。  それらの濃厚な四重奏は、いまや苦痛でしかない。俺は箸を動かし、何度もカツ丼を口の中へ入れようと試みたが、肝心の口が開かない。これ以上の食物を、胃が拒絶しているのが分かる。  その胃の中では、俺がこれまで無理矢理に詰め込んできた食物たちが、脱出の機会を伺っていた。まだ消化されなかった一部の食物が、すでに食道へ逆行している。まずい。この状態で口を開けたら、大変なことになる…!  ついに俺は箸を置いた。  駄目だ、これ以上は食べられない。  負けを認めたくないが、実質的なギブアップ宣言である。…悔しい。  こうなれば、早食い競争の注目は、白田が制限時間内にカツ丼を完食できるかどうかである。白田もまた、何切れもある豚カツには苦戦していた。それでも箸を止めず、一切れを一飲みにして、確実に消化している。気が付くと、白田の豚カツは残り二切れとなった。  俺は白田の戦いぶりを、ただ眺めるだけとなっていた。俺が負けるのは悔しいけれど、一方で白田には完食してほしい気持ちもある。ここまで来たら、白田自身の手で勝利を掴んでほしい。自らへの悔恨と相手への応援、一見すると相反する二つの要素が、俺の心の中では入り混じっていた。  そして白田は、ひとつ大きく呼吸をしてから、二つのカツを一度に掴み、大きく口を開けた。おそらくは、これが最後の一口となるだろう。誰もが白田の勝利を確信した。その時だった。  キーンコーンカーンコーン  休み時間終了のチャイムが響いたのは。 「はい、終了。両者とも箸を止めて」  中間のコールが無情に谺する。俺たちの戦いは終わったのだ。結局、白田はあと一歩のところで完食を逃し、勝敗は付かずということになった。つまりは引き分けである。 「なんだお~!俺の方が多く食べたんだぞぉ。俺の勝ちでいいじゃん」 「いいえ。相手より先に完食できてはじめて勝ちになるのです。いい加減理解しなさい。白田君」 「はぁー??意味わかんないんだけどぉ」  白田は不服そうな表情で、中間に詰め寄っていた。それはそうだ。完食には至らずも、白田が俺より多くの量を食べていたのは事実なのだから。勝ち負けだけで考えるなら、今回は俺の負けでも文句は無い。  だが、中間の考えていることは違う。やつは俺たちに、さらなる高みを求めているように思える。その場の勝ち負けを超越した何かを。 「じゃ、二人とも完食できなかったから。お弁当の代金を払ってもらうよ」  勝敗が付かなかったことに釈然としない思いを抱えつつ、俺と白田は、中間の指示に応じた。 「カツ丼と鬼おろし唐揚げのセット。一人につき千百円」  千百円とはべらぼうに高い金額だ。俺たちは高校生なんだぞ、しかもバイトもしていない。俺たち二人の経済状況を、コイツはわかっているのか。 「あ、もちろん、消費税込みの金額です」  そういう問題じゃないっての。やっぱり中間という男は変人だ。常人とは感覚がズレている。ちなみにコイツが言うには、中間家は名の知れた弁護士の家系らしい。 「完食できたら、お代は払わなくていいんだったよな」 「そうです。だから次は完食目指して頑張ってくださいね」  俺はなけなしの小遣いから、千百円を取り出して中間に渡した。今月はまだ十日しか経っていないのだが、連日の早食い競争のせいで、今月の小遣いはもう底を尽きた。クソッタレである。  中間ごときに貴重な小遣いを支払うのは、今日で最後にしてやろう。  明日以降も続くであろう白田、もとい中間への早食いバトルへ向けて、俺の闘志はすでに燃えたぎっていた。  そして授業に遅刻した俺は、教師からきつい大目玉を食らわされたのだった。もうお腹いっぱいである。
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