47人が本棚に入れています
本棚に追加
「柾、『夕暮れ』って小説知ってる?」
柾がソファでスマホを弄っていると、姉である片野麦が、スマホの液晶画面を向けてきた。
『夕暮れ』とタイトルが書いてある表紙の画像が目に入る。
夕飯を食べた後だった。父と母はテレビを見ていて、姉は久しぶりに会った猫の三郎を撫で回していた。
普段姉は夫と暮らしているため、久しぶりに小見家の全員が集まっていた。
「知ってるよ。何で? 姉ちゃん、小説読まないよね?」
「お義兄さんがこの前話してたの。小説が好きみたいで、特にこの本が好きなんだって。うちの弟も読書好きなんですって言ったら、どんな本が好きなんですか? って訊かれたけど、私、柾がどんな本読むのか全然知らないから、答えられなくてさ。お義兄さん、気になってるみたいだったの」
結婚式で会った、整った顔立ちの男性を思い出す。確か名前は、片野実邦だったはずだ。
姉の結婚相手もそうだが、片野家は全員が端正な顔立ちをしていた。弟は明るい爽やかな雰囲気で、兄の実邦はクールで物静かな雰囲気だった。
「あのイケメン俳優っぽいお義兄さん?」
「そう。今度会った時にもしかしたらまた訊かれるかもしれないから、好きな本教えてくんない?」
「いいけど……どうしようかな……好きな本ありすぎるから、厳選するのに一晩考えさせてほしい」
「そんなにあんの?」
「人生が変わった本とか、何度も読み返したくなる本とか、笑いたい時に読む本とか、読書がさらに好きになった本とか、『好きな本』の中にも色々あるんだよね」
「ふーん、そうなんだ。じゃあ後で送っといて」
わかった、と返す柾の頭の中で、色々な本のタイトルが浮かんでいた。
◇
三日後、柾は麦の家にいた。小見家から車で三十分ほどのマンションだ。
両親は来たことがあるらしいか、柾が訪ねるのは初めてだった。
「ほんとありがとね。柾がいてくれて助かったよ」
スーパーで買った物でパンパンに膨らんだエコバッグを、麦がテーブルに置く。
同じように膨らんだエコバッグを置くと、指の痺れから解放された。
「八人分の食材を買うのって、こんなに大変なんだ……」
「お寿司とかが主だから、作る料理自体はそんなにないけど、八人分作るのも大変そう。そこも柾がいてくれて良かった」
「俺、お洒落な料理作ったことないから不安だけどね……」
「私も」
話しながら、買ってきた物を冷蔵庫にしまっていく。
今日は、小見家と片野家の新年会だった。二時間後に全員が集まる予定だ。
「ちょっと休憩してから作り始めようか」
「賛成」
麦がキッチンの棚から何かを取り出して、柾に見せた。
「お義兄さんにもらった紅茶、飲む? この前話した『夕暮れ』って小説に出てくる物なんだって」
「えっ、まじ? 飲みたい! ちょうど昨日、空き時間に大学の図書館で読んだんだよね」
「じゃあ今日、本についてお義兄さんと話せるね」
「話したいけど、人見知りだから緊張するな……」
ほぼ初対面の相手とすぐに打ち解けられる気がしない。
そんな柾に、「お義兄さん、柾と話せるの楽しみにしてるみたいだったよ」と麦がプレッシャーを与えた。
◇
夕方に麦と準備を始めて、夜七時には全員が集まり、新年会が始まった。
片野実邦は最後に到着したため、柾の席とは離れていた。少し残念に思いながらも、どこかほっとした柾は、姉と自分が作った料理や寿司を食べていた。
そんな状況が変わったのは、お酒のおつまみをコンビニに買いに行く流れになった時だった。
柾が気を使って「俺が行ってきます」と立候補すると、実邦が「俺も一緒に行くよ」と手を挙げたのだ。
人見知りゆえに緊張しつつ、二人でマンションから出て、徒歩五分のコンビニへ向かった。
「柾くん、この前は好きな本を教えてくれてありがとう」
夜の空気が広がる道に、落ち着いた声が溶けた。隣を歩く実邦は相変わらず整った顔立ちをしている。明るく笑ったりはしないが、静かな優しさを感じる人だった。
「俺のまわりの人は、本は読むけど小説が好きなわけじゃないからさ、柾くんが小説好きって知ったら嬉しくなっちゃって。麦さんに色々訊いて困らせてしまったんだ」
「俺も、深く話せるくらい小説が好きな友達ってあまりいないんで、実邦さんと話してみたくて、昨日『夕暮れ』を読んだんです」
少し驚いた実邦が、すぐに嬉しそうに目を細めた。
「嬉しいよ。読んでみてどうだった?」
「俺、けっこう淡々とした作品が好きなんで、すごく面白かったです。ドラマチックな何かは起こらないけど、そこが魅力的というか……色んなことが起こる作品も好きなんですけどね」
「わかる」
熱が入った声だった。実邦は無意識に足が止まってしまったようで、彼から二歩進んだところで柾も動きを止めた。
「ごめん」
実邦が隣に並んだため、また二人は足を進めた。
コンビニが見えた。一月の寒い夜に光が広がっていて、何も用がなくても吸い寄せられそうな光景だった。
「感激だな……こうして小説について話せるなんて」
コンビニから届く光に照らされた顔は、嬉しそうに微笑んでいた。普段の物静かでかっこいい実邦のイメージとは違う一面に、何だか胸がぎゅっとなる。
「柾くんが良かったらだけど、後で連絡先を交換してくれないか? もっと本のことを話したいんだ」
「いいですよ。俺も……実邦さんと本について話したいなって思ってたんです」
「本当? 引かれないか心配だったから良かった」
「引きませんよ。実邦さん、落ち着いててかっこいいから、ちょっと緊張しますけど」
実邦は意外そうに眉を上げて、ふっと笑った。
「ありがとう。柾くんにかっこいいって言ってもらえて嬉しいよ」
色気を感じる微笑みに魅了された柾は、足を止めた。
顔が火照って、心音がうるさくなった。
開いた自動ドアの向こうから「いらっしゃいませ」と声がする。
半歩店内に入った実邦が振り返った。
「柾くん?」
「……っ、何でもないです」
柾は赤くなった耳を隠すように俯きながら、店内に入った。
どうしてこんなにも自分が動揺しているのかわからない。
実邦に対する何かが、心に生まれる感覚がした。
最初のコメントを投稿しよう!