J庭53無配SS

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(まさ)、『夕暮れ』って小説知ってる?」  柾がソファでスマホを弄っていると、姉である片野麦(かたのむぎ)が、スマホの液晶画面を向けてきた。 『夕暮れ』とタイトルが書いてある表紙の画像が目に入る。  夕飯を食べた後だった。父と母はテレビを見ていて、姉は久しぶりに会った猫の三郎を撫で回していた。  普段姉は夫と暮らしているため、久しぶりに小見家の全員が集まっていた。 「知ってるよ。何で? 姉ちゃん、小説読まないよね?」 「お義兄さんがこの前話してたの。小説が好きみたいで、特にこの本が好きなんだって。うちの弟も読書好きなんですって言ったら、どんな本が好きなんですか? って訊かれたけど、私、柾がどんな本読むのか全然知らないから、答えられなくてさ。お義兄さん、気になってるみたいだったの」  結婚式で会った、整った顔立ちの男性を思い出す。確か名前は、片野実邦(みくに)だったはずだ。  姉の結婚相手もそうだが、片野家は全員が端正な顔立ちをしていた。弟は明るい爽やかな雰囲気で、兄の実邦はクールで物静かな雰囲気だった。 「あのイケメン俳優っぽいお義兄さん?」 「そう。今度会った時にもしかしたらまた訊かれるかもしれないから、好きな本教えてくんない?」 「いいけど……どうしようかな……好きな本ありすぎるから、厳選するのに一晩考えさせてほしい」 「そんなにあんの?」 「人生が変わった本とか、何度も読み返したくなる本とか、笑いたい時に読む本とか、読書がさらに好きになった本とか、『好きな本』の中にも色々あるんだよね」 「ふーん、そうなんだ。じゃあ後で送っといて」  わかった、と返す柾の頭の中で、色々な本のタイトルが浮かんでいた。   ◇  三日後、柾は麦の家にいた。小見家から車で三十分ほどのマンションだ。  両親は来たことがあるらしいか、柾が訪ねるのは初めてだった。 「ほんとありがとね。柾がいてくれて助かったよ」  スーパーで買った物でパンパンに膨らんだエコバッグを、麦がテーブルに置く。  同じように膨らんだエコバッグを置くと、指の痺れから解放された。 「八人分の食材を買うのって、こんなに大変なんだ……」 「お寿司とかが主だから、作る料理自体はそんなにないけど、八人分作るのも大変そう。そこも柾がいてくれて良かった」 「俺、お洒落な料理作ったことないから不安だけどね……」 「私も」  話しながら、買ってきた物を冷蔵庫にしまっていく。  今日は、小見家と片野家の新年会だった。二時間後に全員が集まる予定だ。 「ちょっと休憩してから作り始めようか」 「賛成」  麦がキッチンの棚から何かを取り出して、柾に見せた。 「お義兄さんにもらった紅茶、飲む? この前話した『夕暮れ』って小説に出てくる物なんだって」 「えっ、まじ? 飲みたい! ちょうど昨日、空き時間に大学の図書館で読んだんだよね」 「じゃあ今日、本についてお義兄さんと話せるね」 「話したいけど、人見知りだから緊張するな……」  ほぼ初対面の相手とすぐに打ち解けられる気がしない。  そんな柾に、「お義兄さん、柾と話せるの楽しみにしてるみたいだったよ」と麦がプレッシャーを与えた。   ◇  夕方に麦と準備を始めて、夜七時には全員が集まり、新年会が始まった。  片野実邦は最後に到着したため、柾の席とは離れていた。少し残念に思いながらも、どこかほっとした柾は、姉と自分が作った料理や寿司を食べていた。  そんな状況が変わったのは、お酒のおつまみをコンビニに買いに行く流れになった時だった。  柾が気を使って「俺が行ってきます」と立候補すると、実邦が「俺も一緒に行くよ」と手を挙げたのだ。  人見知りゆえに緊張しつつ、二人でマンションから出て、徒歩五分のコンビニへ向かった。 「柾くん、この前は好きな本を教えてくれてありがとう」  夜の空気が広がる道に、落ち着いた声が溶けた。隣を歩く実邦は相変わらず整った顔立ちをしている。明るく笑ったりはしないが、静かな優しさを感じる人だった。 「俺のまわりの人は、本は読むけど小説が好きなわけじゃないからさ、柾くんが小説好きって知ったら嬉しくなっちゃって。麦さんに色々訊いて困らせてしまったんだ」 「俺も、深く話せるくらい小説が好きな友達ってあまりいないんで、実邦さんと話してみたくて、昨日『夕暮れ』を読んだんです」  少し驚いた実邦が、すぐに嬉しそうに目を細めた。 「嬉しいよ。読んでみてどうだった?」 「俺、けっこう淡々とした作品が好きなんで、すごく面白かったです。ドラマチックな何かは起こらないけど、そこが魅力的というか……色んなことが起こる作品も好きなんですけどね」 「わかる」  熱が入った声だった。実邦は無意識に足が止まってしまったようで、彼から二歩進んだところで柾も動きを止めた。 「ごめん」  実邦が隣に並んだため、また二人は足を進めた。  コンビニが見えた。一月の寒い夜に光が広がっていて、何も用がなくても吸い寄せられそうな光景だった。 「感激だな……こうして小説について話せるなんて」  コンビニから届く光に照らされた顔は、嬉しそうに微笑んでいた。普段の物静かでかっこいい実邦のイメージとは違う一面に、何だか胸がぎゅっとなる。 「柾くんが良かったらだけど、後で連絡先を交換してくれないか? もっと本のことを話したいんだ」 「いいですよ。俺も……実邦さんと本について話したいなって思ってたんです」 「本当? 引かれないか心配だったから良かった」 「引きませんよ。実邦さん、落ち着いててかっこいいから、ちょっと緊張しますけど」  実邦は意外そうに眉を上げて、ふっと笑った。 「ありがとう。柾くんにかっこいいって言ってもらえて嬉しいよ」  色気を感じる微笑みに魅了された柾は、足を止めた。  顔が火照って、心音がうるさくなった。  開いた自動ドアの向こうから「いらっしゃいませ」と声がする。  半歩店内に入った実邦が振り返った。 「柾くん?」 「……っ、何でもないです」  柾は赤くなった耳を隠すように俯きながら、店内に入った。  どうしてこんなにも自分が動揺しているのかわからない。  実邦に対する何かが、心に生まれる感覚がした。
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