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「先生の家の桜、伐採してくれないか」
「え?」
患者は少しイラついた口調で、私に指示した。
昨日と違って無風で、陽気に太陽も顔を出していた。
「申し訳ありませんが、それはできません」
「……俺が目が見えないからか?切っても切らなくても、見えないからどうでもいいって思ってるんだろ?」
「いえ、そんな事は無いです。ただ、父から頂いた物なので、父が悲しむかもしれません」
とある会社の社長である父から貰った、一木の桜。幹は太く、立派な物だ。桜を植えると秋に落ち葉が物凄く増えて管理が大変だったり、虫が付きやすい。そのデメリットを父に話したが、この家も俺が買った物だから別にいいだろうと一蹴された。抵抗する勇気も力も私には無く、まあいいかと誤魔化していた。
「じゃあアンタは悲しまないじゃないか。頼むよ、切ってくれ。匂いがするんだよ。鼻につく、嫌な匂いだ」
桜から発せられる匂いなどそんなに無いとは思うが、目を失った分、嗅覚が成長しているのかもしれない。
「……どうしてそんなに桜が嫌いなんですか?」
「……くだらねえ話さ」
患者は虚空を見据えて、淡々と語る。どこか郷愁を滲ませている目をしている。過去を懐かしんで、患者は思い出し笑いをした。頬に朱が混ざった。
「俺の初恋の人の名前に入ってたんだよ」
「はあ……なるほど」
「おい顔は見えねえけど、呆れてるだろ?!」
「いえ、続けて下さい」
声が少し大きくなった。ちょっと面白い。
「まあいいや。そいつとはよく遊んでな。俺達は変わり者同士、色んな事をしたよ。春に線香花火をして、夏に紅葉狩りをして、秋に雪玉を作ろうともがいて、冬にお花見をしたさ。互いがいれば、季節なんてどうでも良かったんだ」
「いい青春じゃないですか」
「ところが現実はそう上手くは行かなかった。俺が小学生の時に事件に巻き込まれて、次に目を覚ましたら、目は無かった。正確に言えば、『目は二度と覚めなかった』とも言えるな」
淡々と患者は語る。だが逆にその淡々さが、少しの違い、例えば患者の声が上擦っている事の証拠になっている。
「俺は勝手に引っ越しさせられて、今までの殆どの人間関係は崩壊したんだ。俺の淡い初恋もそこで消えた。でもさ、この歳になってもまだ忘れられないんだよ。俺の事を『 湊くん』って呼んでくれたのは親含めて彼女だけだったんだ。そんな事を覚えてるんだ。女々しいだろ?」
「女々しいあなたを笑うのは、今はあなただけですよ」
「じゃあ、誰よりも笑ってやるさ」
アスファルトの間から咲く、泥臭い徒花。
そんな印象を患者から感じて、これ以上の想像は止めた。私情を挟むのは良くない。
「俺は今どうして生きてるんだろうな。どうせ、後少しで消えてしまうのに。何も残せないまま、誰も俺の事なんざ覚えちゃいないだろうに」
自嘲する笑い声が、部屋に備え付けられたテレビの音に掻き消された。咳き込んだ患者の背中をさする。
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