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それから私達の短い数日は、会話が消失した世界だった。いつ亡くなるか予断を許さない病状なのに、今思えば狂ってたと思う。
お茶を飲ませる時も、一方的に語りかけて指示するだけで、とても会話なんて生まれなかった。
体を拭く時も、窓の換気をしようと部屋を訪れても、何も起こらない。
桜も切らずに、患者の希望に何一つ添えない日々を過ごして、叔母だなんて嘘をつかなきゃ良かったなとか、患者の自宅でホスピスケアさせてあげれば良かったとか今更どうしようもない後悔を垂れ流していた。
思えば私はいつも選択を間違っていた様に思えた。特別になりたいとか一番になりたいとかそんな欲求よりもただ正常に、マトモであろうとした。父の言う事を聞いて、家だって持っている。
『選択』の主導権をいつも誰かに与えて、結果的に幸せになれた。なのに今の私は嘘つきになって、正常とは最もかけ離れた場所にいる。そして患者を傷付けて、貴重な数日を浪費している。
このままではいけないと、せめてもの罪滅ぼしに私の家ではなく患者の自宅に帰る提案をしようと考えたのと、薬缶が沸いたのは同時だった。
お茶を運んで部屋に入ると、患者は窓から外を見ていた。見ていた、というのは当然言葉の綾で、恐らく外の空気でも吸おうと身体を起こしたのだろう。風は今日も強く、身体に障ると思って一応閉めた。
「……あの」
「どうした」
「あ、いや……その」
「お茶、持ってきたんだろう?」
意地悪い笑みが見える。
ああ、そういえばこういう性格だったなと私は思い出した。私がバツの悪い事を言おうとすると、すぐに話を逸らす。いつも私はそれに乗っかって、また楽しい話を始めて、何を言おうとしたのか忘れてしまう。
「はい。口を開けてください」
「ああ」
「熱くないですか?」
ゆっくりと腕を上げて、OKのサインをする。輪っかを作るまでが大分遅くなっていて、嫌でも終焉が近づいているのが分かる。
「いい温度だよ」
「……そうですか」
沈黙が流れる。お茶を全て飲み終えて姿勢を変えようとモゾモゾする患者に補助を加えて、私は部屋を出ようとする。
「俺、何も無いんだよ」
「え?」
「家族も離婚して二人とも行方知れずだし、友達もろくに作れなかった。人間として手に入る筈だった者も、俺には無い」
「……私も、無いですよ」
「そうか、アンタもか」
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