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「喋れなくなるまで、もう時間が無いなあ」
「そう悲観しなくても、人間いつかはそうなりますよ」
「最後に先生が何を考えてこの家で治療したのか教えてくれないと、祟りに行くぞー!」
「なら尚更、教えませんよ。これは私のエゴでしかないのですから」
日に日に弱っていく姿を直視するのは辛いが、私が弱音を吐くのは患者に悪いと、強がるのを止めない。泣くのは、全て終わった後でだ。今日の天気はどしゃ降りの雨で、明日も明後日も明明後日も雨で、気分まで滅入ってくる。
「おなかすいた」
「まだ食欲があるんですか」
「味覚はもう殆ど無いけどな。まだ体が生きたいって騒いでいるみたいで、面白いよ」
体に負担のかかる物は食べさせられないなと、冷蔵庫に備蓄してあるゼリーを取ってこようかと思い立つと、また手を握られた。
「なあ、食べたい物があるんだ」
「何ですか?」
「京都の空気を吸いながら、抹茶とお団子食べたいなあーって」
「却下で」
無理なお願いに苦笑で返すと、患者は提案を変えようとする。次に無理難題を言われたら、軽くシバこうと決める。
「じゃあ近所の期間限定の桜ドーナツが食べたいな」
「……あれ?桜が嫌いじゃありませんでしたか?ありもしない香りを嗅いで嫌悪する位には嫌いでしたよね?」
当然の疑問をぶつけると、そんな事言ったっけみたいな好々爺ぶった笑顔で誤魔化された。勿論気になるので追求すると、遂に折れたのかポツポツと話し始めた。
「なんか、今思えば桜子との日々は俺の唯一の思い出で、それ以上に楽しかった事なんて無かったんだから、別に肩肘張る必要ないなって」
「悲しい事言いますね。私との思い出はまだあなたの人生ランキングには入りませんか?」
「残念ながら圏外だよ。ちなみにランキングの全てが桜子との思い出だ。笑えるだろ、って俺以外に笑う人はいなかったか」
私は呆れて溜息を吐いて、折角の患者の願いなのだから叶えてあげようと部屋を出ようとする。
「買ってきてくれるのか?」
「いえ、病院の人に頼んで買ってきてもらおうかと」
「アンタが買って来てくれる訳じゃないんだな」
「今あなたを一人にするとすぐに亡くなりそうですし」
違いねえ、と患者は笑った。
それが患者がいなくなる前の一番印象に残った瞬間だった。
ドーナツが届いて食べ終えた時、私は『 選択』を間違えたと気付いた。正確に言えば、選択なんて意味は無かった。どっちを選んでもきっと同じ結果だった。
そういう運命だった。だから仕方ない。
急変だろうと寿命を全うしても人はいつか死ぬ。その時が今だった。だから後悔などないのだ。あっさり死んでもじっくり死んでも、何も変わらない。
患者は、彼は、死んだ。たったそれだけだ。
それだけなのに頬から流れる液体が、邪魔だ。
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