言い伝えと桜

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言い伝えと桜

「桜にだけは、近づいちゃいけないよ――」 村に来て、案内されたとき、初めて言われたことはそれだった。早紀の祖母だという、村長に言われたんだったと思う。  この村に来たとき、迎え入れてくれたときから、村の人達は温厚で、優しくて、冷たく機械的な都会でずっと育ってきた僕にはとてもアットホームで過ごしやすく思えた。……だから、それを聞いたとき、驚くほど不自然で驚かされたのだ。常に優しい笑顔を浮かべていた早紀の祖母から、笑顔が抜け落ち、無表情になり、そしてなにかに怯えたような様子でそう説かれたのだ。わけは、いくら聞いても早紀の祖母が教えてくれることはなかった。 (……桜? そんなものになんで怯えてるんだ?) 案内から戻り、早紀の元へ帰ってきたときに理由を尋ねた。奇妙な慣習が頭から離れなかったのだ。……だって、桜だぞ? あの綺麗な桜に怯えるところなんてあるようには思えない。 「……それは……」 早紀なら教えてくれる、そう思って尋ねたのだが、教えてはくれなかった。15までこの村で育ってきたという彼女が知っているのは確からしいのだが、彼女の祖母と同じく、怯えるだけで教えてくれない。 「……絶対に近づいちゃ、だめよ。桜にだけは近づかないで」 お願いだから、絶対よ。そう泣きそうな顔で嘆願されて、僕はもうそれを訊くのは止めることにした。この村特有の都市伝説でもあるのだろう。いくら婿入りしてきたからといっても、東京から来た余所者である俺には言いにくいことだってあるだろう。 「分かった、分かったって! 桜には近寄らないようにするよ!」 そう言うと、早紀はほっとした表情で、胸をなでおろした。 ○  村に来て、4年が経った。慣れないあいだは知らない慣習なんかが多くて色々と苦労したが、今はだいぶ慣れて悠々と過ごせるようになってきている。住めば都、という言葉は伊達じゃないなと思うくらいには心地いい。  早紀とは無事に結婚式を上げ、子供もできた。一人目の由紀はもう数ヶ月で3歳になる。そして、二人目もあと2ヶ月ほどで生まれる。  今俺は、大学時代に内定を貰っていた企業に毎日村から車で通っている。収入も上々だ。早紀と由紀と俺、そしてもうすぐ生まれてくる子供四人で不自由なく暮らせる程度には稼げている。  まさに、幸せ。そんな日々のさなかのある日。 「まさくん」 「ん、どうしたの?」 「神社でお祭り、やるんだって。一週間後みたい。亜由美さんが言ってたの。由紀も連れて、行かない?」 すっと一枚のチラシを差し出される。清川神社の境内で、いくつか店を出して小さなお祭りをするらしい。花火も上げる、と書かれている。数年に一度やるものらしく、早紀によると、自分が来てからは初めてらしい。へぇ、春にお祭りをやるなんて珍しい。由紀も最近、早紀が出産前なのもあってどこにも連れて行ってやれてなかった。清川神社ならすぐそこだし、早紀でもどうにか歩けるだろう。 「いいと思う。由紀も喜ぶだろうし、行こうか」
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