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 郁が勤めるのは、大手の製菓会社だ。三つある営業課の中の、清涼飲料水を扱う営業二課に身を置く郁は、この日も定時の三十分ほど前に出勤した。  昨日はセットしていた前髪を下ろし、黒縁の伊達眼鏡を掛け、安いスーツに地味なネクタイを締めたその姿は、昨日の郁とは別人に見える。というかわざとそう見えるように繕っているのだ。 「え、宮東さん、出勤してたんですか?」  デスクにたどり着き、目の前のパソコンを開いてメールのチェックをしていると、後ろからそんな声が聞こえ、郁は振り返った。 「いないと思って、電話折り返しにしてしまいました……」  後ろに立っていた女子社員が申し訳なさそうに一枚のメモを手渡す。郁はそれを受け取り、大丈夫です、と柔らかく笑った。 「今来たところでしたし……ありがとうございます」 「いえ……じゃあ、失礼します」  女子社員が頭を下げてきびすを返す。そのまま傍に居た別の社員に、いるって分かんなかったよ、と話し始めた。 「宮東さん、存在感薄いんだもん、優しいけど」 「優しいけど、人と距離あるよね」  そんな会話が小さく聞こえる中、郁は笑い出しそうなのを必死に抑えた。  ――だってそういう印象になるようにしてるもん。優しいのも人と距離あるのも、存在感が薄いのも計算だもん。  会社では目立たず、されど沈まず、その他大勢でいるようにしている。もちろん、週末に羽を伸ばして遊ぶためだ。会社の同僚に見つかっても、他人だろう、と思わせるためだ。さすがに会社にゲイバレは避けたい。  だから居るのか居ないのか分からないくらいがちょうどいいのだ。 「あ、宮東さん、おはようございます!」  目立たないを目標に日々努力している郁に、毎朝こんな大きな声で挨拶をするのは、二つ下の後輩、高瀬(たかせ)爽平(そうへい)だ。その声を背後で聞き、郁は誰にも聞こえないため息を漏らした。  営業二課イチのイケメンで明るく人懐こい性格はいわゆる『人たらし』という奴で、女子社員はもちろん、男性社員にも好かれている。仕事も一生懸命でその分の成果も上げているから上司の覚えもいい。  そんな目立つ爽平が傍に来るとどうしても自分も他の社員の視界に入ってしまう。それが郁はとても嫌だった。目立たない努力が全て台無しになってしまう。 「おはよう、高瀬くん」  それでも嫌な顔などできるわけがない。郁が振り返り笑顔を向けると、爽平が嬉しそうに微笑む。 「宮東さん、今日の飲み会参加しますか?」 「え……今日?」  そういえば三日くらい前に別の社員から聞かれたような気がする。このところ連続で断り続けていたから、参加すると返事をしたかもしれない、と郁は自身のスマホを開いた。  予定表の今日の欄に飲み会の文字がある。 「ああ、今日は行く予定だ」 「やった! 俺、宮東さんともっとちゃんと話をしてみたかったんです」  楽しみにしてますね、と極上の笑顔を置いて、爽平が郁の傍を離れる。郁は再びため息を吐いた。  爽平は新人研修が終わり、こちらに配属になった後で、郁が仕事を教えた後輩だった。社の新人研修は厳しいことで有名で、それを乗り越えられない新人も少なからず居るのだが、爽平はとても飲み込みが早く、研修の際に作ったプレゼンの資料は、彼の同期の誰よりよく出来ていた。  そんな優秀な彼がなぜ郁の下に付いたのかよく分からないのだが、とにかく指導しやすかったのは覚えている。それももう三年も前の話だ。それからなぜか爽平にはこうして懐かれているのだ。嫌とは言わないが、爽平が目立つから少し遠慮してもらいたい気持ちもある。 「……あんな奴が抱いてくれるなら別だけど」  ぽつりと呟いて、それが絶対にありえないと思うと余計に虚しくて大きくため息を吐いてから、郁は目の前の仕事に戻っていった。
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