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「梅さんに話聞いて貰ったら、少し回復した。今日は帰るよ」
「ホントに、それでいいの? 郁ちゃんにだって、素敵な恋愛をする権利はあるんだよ。お店紹介したのは私だけど……ホントは郁ちゃんには、あんな不特定多数相手にするんじゃなくて、一人の人に愛されて欲しい。店はいつ辞めてもいいんだからね」
「うん。でも、今のところ楽しいよ……胸はまだ触って貰えてないけど」
問題なのはそこなんだよ、と郁がため息を吐く。梅沢はそれに、郁ちゃんが楽しいならいいけど、と笑った。
「まあ、そんなに後輩くんが嫌なら、店で出会うかもしれないしね」
「お客さんと恋愛禁止ってルールにあったけど」
「その時は攫って貰えばいいじゃない! 禁じられた恋なんて、ドキドキするわね」
梅沢が楽しそうに頬に手を当て目を閉じる。何を想像しているのか知らないが、郁には非現実的でつい笑ってしまった。
「僕は笹井さんに怒られそうでドキドキするよ……僕、明日も仕事行かなきゃいけないから今日は帰るよ」
じゃあね、と梅沢に手を振り、郁が店を出る。来る時は降っていなかった雨が降り出していた。当然傘など持っていない。
とはいえ、店に戻って止むのを待つのも時間的に避けたい。近くのコンビニまで走るか、と決め、郁は地面を蹴り出した。
少し走った先で見つけたコンビニで傘を買い、それを外で広げると、近くで、うわ、と声がして郁が顔を上げた。
「すみません、当たりましたか?」
慌てて聞くと、男性が、いや、と郁を見やる。その男性と顔を見合わせ郁が、あ、と声にした。
「郁!」
「竹くん!」
久しいその顔を見て、郁が微笑む。竹の方も嬉しそうに、久しぶり、と笑った。
「あ、もしかして飲んでた?」
「うん。梅さんと」
「梅さん、いつでも居るよね、あそこに」
住んでるんじゃない? と竹が笑う。かもね、と返すと、竹の視線が自分の体へと移っていることに気付いて、どうした? と聞く。
「郁、上着貸すよ。シャツ透けて、襲ってください状態になってる」
「え?」
聞き返しながら自身の胸を見ると、たしかに乳首が透けて見える。白いシャツだからだろう。竹が着ていたパーカーを郁の肩に掛ける。郁はそれを素直に着て、ファスナーを上までしめた。
「ごめん、今度返す」
「貰ってくれてもいいよ」
安物だけど、と笑う竹に、郁が真っすぐな目を向ける。
「どっちがいい? 僕は竹くんと友達として会えるけど、浮気疑われるのは嫌だし」
「あー……じゃあ、今度昼間に返して貰う。郁の会社の方行くよ」
「うん。それなら、遠慮なく借りるね。ありがとう」
「いや。気を付けて。夜道も風邪にもな」
郁はすぐ風邪ひくだろ、とパーカーのフードを被せられ、そのまま頭を撫でられた。髪も濡れていたのだろう。
「うん、大丈夫」
郁の頷きを見た竹が、じゃあ連絡する、と笑って手を振る。郁も同じように手を振って傘をさし、歩き出した。
「あ、竹くんのにおい……」
パーカーから優しい香りがして、郁はなんだか穏やかな気持ちになる。竹とは確かに恋愛感情はなかったけれど、体を繋いだ『情』みたいなものはお互い持っていたと思う。だから優しくしてくれるのだと思うし、優しくしたい。
「でも違うんだよなあ……」
そのまま恋人になれないのは、そこに打算があるからだ。きっと付き合ったところで長続きはしないだろう。竹とセックス抜きの関係なんて想像すらできない。
じゃあ爽平となら、と考えても彼とは仕事の関係以外考えることが出来なかった。確かに自分に触れるあの手や唇を思い出すとドキドキはするけれど、それは体の衝動な気がする。好きとか愛とか、そんなものではない。
「付き合うとか無理だなあ」
梅沢の言葉を思い出してぽつりと呟く。それで解決、とはいかないな、と思いながら、郁は雨の中家路についた。
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