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 爽平に、店を辞めて欲しいと言われて少し心が揺らいだが、すぐに辞められるわけではないのが仕事というものだ。  郁はその日も出勤日のため、店へと来ていた。 「お疲れ様、ミヤちゃん。今日の衣装はコレだって」  ロッカールームで渡された衣装を見た郁が、え、と顔を引きつらせる。渡した先輩キャストも、気持ちはわかるよ、と苦く笑った。 「でも、ほらきっと可愛いよ」  じゃあ準備してね、と先輩キャストがそそくさと立ち去る。郁は改めて衣装を見やった。 「どう見ても、ネコ、だよね……」  そりゃネコに違いないし、なんならバリがつくくらいだけど、それは性癖であって家でのんびりしてるアイツらとは違う。  丈の短い黒のタンクトップに黒のホットパンツ、パンツには長い尻尾がついていて、頭には猫耳のカチューシャ、足元は猫足を模したスリッパ――それが今日の郁の衣装だった。 「オーナーは僕に動物シリーズで攻めさせるつもりなのかな……」  郁がため息を吐く。  二十代後半の自分には似合わないだろうな、と思いながらも用意されたものを着るのが店のルールだ。お客さんの笑いが取れればいいか、と思い、郁はそれに着替え、おそるおそるフロアへと出た。  平日ど真ん中だというのに、今日は全席が埋まっていた。今日はきっとヘルプに駆り出されるだろう。  うさぎの時は、いいお客さんに当たっていたようで、『可愛いね』『似合ってるよ』と言って貰えていたが、今回もそうとは限らないだろう。   郁がため息を吐くと、トレイを持ったキャストがこちらに近づいてきた。 「ミヤちゃん、待ってた。さっき皇紀さん店外デート行っちゃって、ヘルプも人手足りなくて」  すぐウエイターに入って、と目顔でバーテンダーの居るカウンターを指す。郁はそれに頷いてからカウンターに近づいた。 「ウエイターに入ります。次の注文ください」  バーテンターの背中に声を掛けると、お疲れ様、と彼が振り返る。 「今日はネコか。いいね、可愛い可愛い」 「……相変わらず適当ですね」 「そんなことないさ。この店のキャストはみんな可愛い」  バーテンダーは新しいトレイにグラスを置きながら笑う。ということは全部のキャストに同じような事を言っているのだろう。この店でバーテンダーが人気なのも頷けた。  けれどきっと、裏方である彼らがキャストの気持ちを持ち上げてくれるから頑張れるところもあるのだろう。実際、さっきまでこの格好でフロアを歩くことに怯えていた郁の背筋も少し伸びている。 「……ああ、これか」  今朝爽平に言われて胸が温かくなった言葉を思い出す。素敵な人だと言われたことは確かに嬉しかった。自分が認められた気がして、その時ようやく爽平に視線を合わせることが出来たのだ。 「何かあった?」  ぼんやりと動きを止めてしまった郁にバーテンターが声を掛ける。郁はそれに首を振った。 「いや、たとえお世辞でも肯定されるのって気持ちいいなと思って……」 「あ、今のお世辞だと思ってるんだろ?」  バーテンダーは少し不機嫌な顔をして、郁の腕を掴んで引き寄せた。そのまま耳元に唇を近づける。 「ミヤちゃんなら抱きたいって思うくらい可愛い」  こんなの誰にでも言わないよ、とささやいてから郁の腕を離す。郁はその時初めてバーテンダーの胸に付いている名札に目を向けた。 「あ、りがとう、ございます……藤さん」 「ん。じゃあ今日もお仕事頑張ろうな」  郁の頭を撫でて藤が微笑む。それに頷いて、トレイを持ち上げた、その時だった。 『ミヤちゃん、五番さんご指名です! 初指名ありがとうございます!』  フロアにそんなアナウンスが響く。すると黒服を着たスタッフがこちらに近づいた。 「ミヤちゃん、ご指名だよ。行こう」  その言葉に驚きながらも郁は初めての指名にドキドキしながら頷いた。
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