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「指名初めてってことは伝えてあるから、緊張しないで、お客さんに任せていいから」
何かあったら巡回スタッフ捕まえて、とスタッフに言われ、郁が頷く。そうしているうちに、すぐに席にたどり着いた。
「ミヤちゃんお連れしました。ごゆっくりどうぞ」
その席に居たのは、スーツ姿の男性だった。おそらく三十代後半から四十代前半だろう。いい意味で渋さがあり、年上の余裕のようなものが窺える『いい男』だった。
「ご、指名ありがとうございます! ミヤ、です」
ぺこり、と頭を思い切り下げると猫耳のカチューシャが床に落ちる。慌てて顔を上げると、大丈夫、と声がして、男性がカチューシャを拾い上げた。
「こちらにどうぞ、ネコちゃん。可愛い耳、付け直してあげる」
男性が自身の隣を手のひらで指す。郁はそれに、失礼します、と頭を下げてから男性の隣に落ち着いた。そんな郁に男性がカチューシャを付ける。
「すみません、ありがとうございます。あ、改めまして、ミヤです」
パンツのポケットから名刺を取り出して手渡す。
「ありがとう。私のことは……啓吾と呼んで貰えるかな」
微笑まれ、郁が頷く。それから先輩たちの接客を思い出し、お飲み物は? と聞く。
「じゃあビールを。ミヤは?」
「僕もいいんですか?」
「もちろん。何か食べたかったら頼んでいいよ」
指名というのはすごい、と本気で思った。そりゃ先輩たちが飲みすぎたり食べ過ぎたりするわけだと思う。全部自分の売り上げになるのだから必死だろう。
郁の場合は、ここで幻滅されないかが心配だ。
郁はスタッフにビールを二つ頼んでから、あの、と啓吾を見やった。
「どうして、僕を指名してくれたんですか?」
確かに入り口にキャストのカタログはあるが、郁の写真は最後だし、それまでに魅力的なキャストがいるから、いつも写真すら見て貰えない。今日はまだフロアを歩き回ってもいないので目についたということもないだろう。
そうなるとどうして指名して貰えたのか益々分からないのだ。
「うーん……実は、この店で一番人気のない子を呼んでって言ったんだよね。そうしたらミヤが来た」
ごめんね、と啓吾が眉を下げる。郁はその言葉を聞いて、一瞬驚いてから、すぐに笑い出した。
「理解しました。確かに僕はこの店で一番人気ないです。これが初指名ですし」
「でもね、ミヤ。私はちょっと驚いてるんだよ。こんな可愛い子が来ると思ってなかったから」
啓吾が郁の手を握る。郁はそれに微笑み、ありがとうございます、と頭を下げた。
「僕、入店してまだ一か月ほどなんです。それに、先輩たちは魅力的な人が多いから、人気ないんです」
いつもヘルプとウエイターなんですよ、と笑うと、啓吾は、勿体ないな、と郁を見つめた。
「こんなに可愛いのに。ここの客は見る目がないな」
啓吾が郁の腰を抱き寄せる。かすかに香水の香りがした。嫌いな香りではない。
「ここは特化したお店だから……お客さんもココが大事じゃないですか。啓吾さんの目的もそうじゃないんですか?」
郁が自身の胸に手のひらを当て、啓吾を見上げる。啓吾はそれに少し首を傾げてから、そういえばそうだったか、と頷いた。
「実は連れと来ていたんだけど、お気に入りのキャストと外出しちゃってね。帰ろうか迷ったんだけど、せっかく来たから遊ぼうと思って……だから、特に雄っぱいが好きってわけではないんだよ」
「……珍しいお客様ですね」
そういえばさっき皇紀が店外デートに行ったと聞いた。啓吾と一緒に来ていた客と出かけたのだと合点する。
「実は、仕事でミスをしてね。ちょっと落ち込んでたんだけど、連れが、雄っぱいは癒しだ、なんて連れてきてくれたんだ」
「……何も癒せるものがなくて、すみません……」
郁は自分の胸に手を当て、ため息を吐く。そんな姿を見て啓吾が笑った。
「いや、でも、同じ男だからかな。気負わずに話ができるよ」
「それなら良かったです。話を聞くだけなら、僕にもできるので」
何でも話してください、と微笑むと、啓吾がそれに頷いた。その時だった。
ゆっくりと店内の照明が暗くなり、音楽が大きくなる。
「あ、啓吾さん、お触りタイムですよ。どうされますか?」
お膝に乗りますか? と聞くと、啓吾が、おいで、と郁の腰を抱え上げた。郁はそのまま啓吾の太腿にまたがる様に座る。
「このまま抱きしめさせてほしい」
「……はい。小さいですけど、触りますか?」
ドキドキとしながら聞くが、啓吾は緩く首を振った。
「今日はいいよ」
啓吾が郁の背中を抱きしめ、胸に顔を埋める。指名して貰えたのに触っては貰えないんだと思うと少し寂しかった。けれどこれはきっと啓吾の優しさなのだろう。この人も爽平と同じようにこの仕事を嫌々していると思われているのかもしれない。
「はい。じゃあ、好きなだけ抱きしめてください」
郁が啓吾の頭を抱きしめ、髪を撫でる。整髪料で固められた髪は、この人の武装のような気がして、郁はその髪をくしゃくしゃと乱した。
「こら、ミヤ。髪で遊ばない」
前髪が下りた啓吾がこちらを見上げる。その方がなんだかセクシーで郁好みだ。
「啓吾さん、こっちの方が似合いますね。もうお仕事終わったんですからいいじゃないですか」
ね、と郁が笑うと、啓吾は呆れたように笑ってから、再び郁の胸に顔を埋めた。
「ミヤ、また指名していい?」
一瞬爽平の懇願するような顔が頭をよぎったが、郁はそれを打ち消すように目を閉じてから口を開いた。
「もちろんです。いつでもお待ちしてます」
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