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10
「お店、辞めてくれましたか?」
翌日の夕方、外回りの仕事からオフィスに戻って来た郁に、爽平が近づいて、開口一番にそう聞いた。きっと、ずっと気になっていたのだろう。
「そう簡単に辞められるわけないだろう」
仮にも仕事だ、とため息を吐くと、爽平は残念そうに眉を寄せる。その表情にため息をついた郁は、ちょっとこっち、と爽平のスーツの袖を引いた。そのまま近くの資料室へと爽平を押し込んでから、郁は口を開いた。
「店で指名客が付いた。だからもう、高瀬くんは必要ないんだよ」
郁が告げると、爽平が驚いた顔をする。それを見て郁は怪訝な顔を向けた。
「僕に客が付くとおかしいか?」
「い、いえ! 宮東さんはキレイだし、そういうことも……ある、かな……と……あの、て、ことは……その客に、その……」
今にも泣きそうな顔で言葉を詰まらせる爽平を見て、郁が一瞬唇を噛む。それから、そうだよ、と爽平をまっすぐに見つめた。
「胸、触って貰ったよ。僕の胸でもいいって、気持ちよくしてもらえた。次も指名してくれるって……だから、高瀬くんとは……」
郁がそこまで言うと、爽平が郁を急に抱きしめた。突然のことに郁の息が止まる。
「た、かせ、くん……?」
「嘘だ。認めません! あなたは、俺のものです」
爽平は郁を強く抱きしめたままキスをした。深く唇を合わせ、舌を絡める。そのまま舌先を吸い込まれ、郁は苦しくて爽平の胸を押し返した。少しだけ体が離れ、唇が解放される。
「離して、高瀬くん」
「嫌です」
短く答えた爽平が郁のシャツのボタンを開ける。隙間から手を入れ胸に触れられると、郁の体はびくりと跳ねた。
「た、かせ……く、ここ、会社……」
すぐに反応して尖った乳首を捏ねるように撫でられ、郁の息が上がる。それでもこんな場所ではまずいと、爽平の手を剝がそうとするが、逆にその手を背後の棚に押し付けられてしまった。郁がまっすぐに爽平を見つめると、その目は鋭くこちらを見てから、すぐに逸らされた。
「もう終業時間です。それに元々ここはほとんど使われてないので」
大丈夫です、と爽平がシャツの隙間を広げる。中に着ていたアンダーシャツをたくし上げ、胸を空気に晒すと、すぐにそこに唇を寄せた。
「ひっ、んっ……!」
突然きた快感の波に抗えず息を詰める。口の中に含まれ、舌で先端をゆっくりと舐められる。それだけで背中がわなないた。同時にもう一つの乳首も指で愛撫され、郁はぎゅっと唇を噛んで声を殺した。
爽平の言うように終業時間を過ぎた滅多に人の来ない資料室ではあるが、社内であることには違いないし、ここに誰も来ない保証はない。せめて近くを通った人が気づかないようにするしかなかった。
「宮東さん……そんなに噛んだら怪我しますよ」
郁の胸から唇を離した爽平が、今度は郁の唇を舐める。
「じゃ、もう……離して……」
「そんな可愛い顔されて離せるようなら、こんなことしてません」
爽平が一瞬苦しそうな顔をしてから郁の唇を塞ぐようにキスをする。郁の手を押さえていた手を解き、そのまま郁のベルトを外すと、前立てを開いて下着の中へとその手をしのばせた。
「んんっ……んっ」
抗いたいのに、抗えない。
爽平の手が心地良くて、いつの間にか頭の奥まで溶けていっている気がした。
確かにひととは違う、ちょっと難儀な性癖は持っている。けれど、こんな襲われているというのに気持ちよくなるほど自分が淫乱だとは思っていなかった。あまりの情けなさに少し泣けてくる。
するとふいに爽平が唇を離した。
「……泣くほど、嫌ですか……?」
「え……」
爽平の言葉に驚いて目を開くと、頬を雫が転がっていく感覚がして、郁は顔に触れた。指先が濡れている。
「そうじゃ……」
「俺のことが嫌いなら嫌いって、言ってください」
「嫌いじゃない!」
自分から離れていく爽平の手を咄嗟に掴んで、郁がまっすぐに爽平を見つめる。
「だから、困ってるんだよ……僕は、高瀬くんの憧れの先輩で居たかった。本当はこんな僕、君に見せたくなかった」
地味だけど仕事が出来て、尊敬できる先輩のままで居たかった。爽平の部屋に向かうあの日のあの時のように、少し仲のいい先輩と後輩で居たかった。
こんなふうに情けなく喘いで泣くようなところは見せたくなかった。
「宮東さん……」
「ごめん……こんな乳首で感じて股間固くさせてる変態が何言っても仕方ないんだけど……」
止まらない涙を拭って郁が俯く。すると、爽平が優しく郁を抱き寄せた。
「俺の方こそ、強引に迫ってすみませんでした。宮東さんがあんな店で働いてるって知って、すごく焦って……体から落としてしまえって思ってました」
郁の耳元でため息を吐いてから、爽平がそっと郁の体を離し、両手を握る。
「でも、宮東さんがそう言うなら、俺は正攻法で距離を縮めたいと思ってます。それなら、いいですか?」
爽平が優しい目でこちらを見る。郁はそれに頷いた。良かった、と爽平が手を離し、両手で郁の頬を包み込むように涙を拭く。
「まずは今日、ご飯に行きましょう。宮東さんは何が好きですか?」
「……そば」
「渋い」
「じゃあ焼き鳥」
「呑む気満々ですね」
いいですけど、と爽平が笑いながら郁のシャツのボタンを留めた。
「おっさんくさいって言いたかったら言っていい。自覚はある」
郁もスラックスを整え、ベルトを締め直して爽平を見やった。その顔が笑っている。
「じゃあ今日は俺の好きなイタリアンで。有名なアニメ映画に出て来るミートボール入ったパスタ、あれが食べられる店があるんですよ」
どうですか? とネクタイの歪みを直しながら爽平がこちらに首を傾げる。郁はそれに頷いた。
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