863人が本棚に入れています
本棚に追加
「会いたかった、郁」
綿のパンツにラフなシャツとカーディガンという姿の男性がこちらに微笑む。しばらく考えてみたが彼が誰だか思いだせない。
「先日名刺交換したばかりじゃないか」
そう笑われ、彼をじっと見つめる。想像の中でスーツを着せてみて、ようやくそれが誰だか分かった。
「ああ……尾塚さん……お世話になっております」
郁が立ち上がり頭を下げる。こんな店で極プライベートで会ってはいるが、郁はこのまま仕事の関係者としてやり過ごすつもりだった。
余計なトラブルは招きたくない。
「昔のようにテルさんって呼んでくれていいよ」
「……ごめんなさい。そっちは思いだせなくて……あ、僕はもう帰るので、良かったらこの席どうぞ」
今日は金曜日なので、そこそこ店も混んでいる。相手を探すために一人で来る客も多い日なので、カウンターも埋まり気味だ。
「郁が帰るなら、ここに用はないよ。どこかで飲み直そうか?」
どこか、なんて遠回しに言っているが、ホテルに行こうと誘っているのだろう。本当にぼんやりとしか覚えていないということは、数回会って、苦痛なセックスをしただけの相手なのだろう。
郁にはこの誘いにのるメリットがない。
「すみません、実は明日も打ち合わせがあって、もう帰るところなんです」
また今度ぜひ、と上辺だけの笑みを貼り付けて郁が歩き出す。上手く店を出られたと思ったが、すぐに尾塚に手を取られた。
「郁、そんなつれないこと言わないでくれ。ずっと忘れられなかったんだ。この店にも君を探しに何度も来た……ようやく会えたのに、これきりになんて出来ない」
強く手を握られ、郁が困った顔で尾塚を見上げる。それでもまっすぐにこちらを見やる尾塚に郁の手を離す気はないようだった。
「……僕があなたから離れたことに理由はないと考えてるんですか?」
「理由?」
「連絡を絶って、関係を解消した理由です」
郁がはっきりと言うと、尾塚が小さく笑った。
「関係って……セフレだろ。理由なんて、その時の郁が私に飽きたからだろ? もしくはもっといいカラダの男がいた、とか」
確かに愛のない関係ばかり持っている。けれど、だからといって情がないわけではない。花の間を飛ぶ蜂のようにより甘い蜜を求めてフラフラしているわけではないのだ。
セフレという関係でも、ちゃんと大事にしているし、そうしてきた。
けれど尾塚にとってのセフレとは、そういう刹那的なものという認識なのだろう。だから、軽い理由で連絡が取れなくなっただけで、また結び直せる関係だと思っている。
郁が考えるものとはかなりの差があるようだ。
「……もう二度と抱かれたくなかったからです」
郁は尾塚の手を強引に外し、そう言い残して歩き出した。
「ちょっ、郁!」
尾塚が慌てて郁の後を追う。郁はそれを無視して駅へと向かい歩いた。
「郁の体が忘れられないんだよ。あれから誰を抱いても郁と比べてしまうんだ」
また抱きたいんだよ、と尾塚が郁の腰を抱き寄せる。郁は足を止め不機嫌に尾塚を見上げた。
「離してください。尾塚さんとは仕事でしか会いません」
はっきりと伝えないと分からないのだろうと思い、そう告げるが、尾塚にその言葉は響いてないようで、より強く腰を抱き寄せられる。そのままキスをされそうになり、郁が体を引く。
「探しましたよ、宮東さん!」
その時だった。郁の肩を抱き、尾塚から離してくれたのは爽平だった。その言葉と存在に驚いた郁はそのまま爽平の腕の中に収まる。
「……君は?」
郁を奪われた手をぐっと握りしめた尾塚が爽平に鋭い目を向ける。
「俺は……」
「あー、ごめん、爽平。約束今日だっけ? 忘れて店出ちゃった」
郁が爽平の言葉を遮り、爽平に体を預ける。そのまま爽平の顔を見上げ目配せすると、意図が分かったのか、そうですよ、と爽平が郁の腰に腕を廻した。
「忘れて帰るなんてひどいです」
爽平が眉を下げる。郁が、ごめんって、と爽平の手を取った。仲の良さを演出するような素振りを見せてから、郁が尾塚に視線を向ける。
「尾塚さん、彼が今の相手なんです。だから、僕のことは諦めてください」
郁が尾塚に微笑み、行こうか、と爽平を見上げる。爽平は、はい、と頷き、郁の手を引いて歩き出した。尾塚がそれを追うことはなく、しばらく歩いてから郁がほっと息を吐き、爽平の手を離した。
「助かった。ありがとう」
短く言うと、爽平は小さく首を振る。
「いえ……助けるつもりじゃなくて、邪魔するつもりだったんですけど、結果感謝されたなら良かったです」
爽平が郁に微笑む。けれどその微笑みは少し哀しそうに歪んでいた。郁がそれに首を傾げる。
「どうかしたか?」
「あの人も……お客さんですか?」
どうやら尾塚をパブの客だと思ったようだ。郁は眉を下げたままの爽平に、違う、と首を振った。
「昔、少しだけ関係があっただけで……もう会うことはないはずだ」
「じゃあ、本当に絡まれてたんですね。よかった、声掛けて」
爽平が郁の手を握る。その手はとても冷たくて、少し震えていた。
「心配、してくれた、のか?」
「はい、当然です。あのままだと、宮東さんを連れ去られてたかもしれないってことですよね。そう考えただけで、怖いです」
力づくで引きずられたら、きっと郁に勝ち目はない。今更だが、爽平の言うように確かに怖いと思い、ドキドキと心臓が高く鳴った。
「今度からは気を付けるよ」
「そうして貰えると、俺の寿命も縮まないので安心です」
ようやくいつものように笑った爽平を見て、郁がほっとする。それからどうしてこんなことでほっとしたのか分らなくて、でも今はその疑問はしまっておくことにした。なんだか考えてはいけないことのような気がしたのだ。
「というわけで、このまま宮東さんの家まで送りますね。あ、送り狼にはならないので、安心してください」
爽平が郁の手を繋いだまま歩き出す。その手が温かくなっていることが、なんだか嬉しかった。
「家までコレ、繋いだままか?」
「駅に着いたら離します。それまでは……もう少し、宮東さんの彼氏役、させてください」
ぎゅっと強く手を握られ郁は、仕方ないな、と頷いた。爽平が、ありがとうございます、と微笑む。
「ずっと駅に着かなきゃいいのに……」
隣から聞こえたそんな呟きは聞かなかったことにして、郁は爽平の優しくて大きな手のひらの温かさに、ただ胸が苦しくなっていた。
最初のコメントを投稿しよう!