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12
――何か違う方向に行っている気がする。
そりゃ、お金はあって困らないものだから、手に入るのは嬉しい。けれど、そもそもあの店に入った目的は金ではなく、ただ自分の欲求を満たしたいためだ。その欲求はほとんど満たせていない上にプライベートの時間まで買われてしまうとは、何か違う気がするのだ。
「……どこで間違ったんだ……」
下ろした前髪をくしゃくしゃと乱暴に乱しながら郁がため息を吐く。すると後ろから、見積もりですか? と声がかかり、郁は顔を上げた。
いつものオフィス、いつもの自分の席で仕事をしていた郁に近づくのは爽平だった。
「え? あ、いや……」
「間違ってる気はしないんですが……」
郁の目の前のパソコン画面に近づき、爽平が覗き込む。自然とその顔が傍に来て、郁は端正な横顔と、ふわりと香る爽平の香りにドキドキしてしまって、少し椅子のキャスターを転がして距離を取った。それに気づいた爽平が振り返る。それから椅子の背もたれに手を掛け、郁が距離を取った分、詰めるように椅子を引いた。再び顔が近くなる。
「そんなに警戒しなくても、いきなり体に触れたりしません。だから……そんなに怯えないでください」
こちらを見るその顔が情けない笑顔に変わる。怯えているつもりはなくて、妙に心臓が騒がしくなったことに焦って思わず距離を取ってしまった。その誤解はされたくなかった。
「ちが、う……怯えてない。高瀬くんを怖がるわけないじゃないか」
当たり前じゃないか、と少し強く返すと、爽平の顔が幾分安心したものになる。それから、そうですね、と苦く笑った。
「そうだ、宮東さん、今日の昼なんですけど……」
爽平がそこまで言った時だった。高瀬くん、と遠くで声がして、爽平とついでに郁も振り返る。オフィスの入り口に女子社員が二人立っていた。彼女らは手を振るとこちらに向かって来る。爽平もそれに倣うように郁の傍を離れ彼女らに近づいた。
「高瀬くん、お昼まだだよね? もしよかったらコレ、食べない?」
一人の女子社員が爽平に紙袋を手渡す。爽平はそれをゆっくりと受け取ってから中を覗いた。
「……パン、ですか?」
「そう。趣味でね、昨日パン焼いたから、サンドイッチにしてみたの。たくさん作ったから良かったらどうかなと思って」
「あ、私もね、クッキー焼いたから食後に食べて」
もう一人の社員も小さな袋を爽平に押し付ける。爽平は慌ててそれを受け取るが、その表情は少し困っている様子だった。
「あ、はあ……でも、俺、この後外回り行くので食べてる暇なくて……」
爽平が紙袋を差し出すが、女子社員は受け取らず、じゃあ外で食べて、と微笑む。
「一緒に食べられないのは残念だけど、食べてくれたらいいから……そのうち感想聞かせて」
営業頑張ってね、と言い置いて、二人の女子社員が去っていく。爽平を見やると、その表情は暗く、滅多に聞かないため息が聞こえてきて郁は思わず、どうした? と聞いてしまった。
「……宮東さん、助けてくれません?」
「助ける?」
首を傾げる郁に爽平が頷くと、ちょっと来てください、と情けない顔のまま郁を見つめる。
「分かったよ」
なんだかその爽平が可愛く見えて、郁は小さく笑ってから頷いた。
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