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「じ、冗談ばっかり言ってないで、行くぞ」
昼休み終わる、と爽平を振り返ると穏やかな笑みを浮かべる爽平が頷いた。
「冗談なんか、ひとつも言ってないですけどね」
小さなその言葉を郁は聞こえないふりをして赤くなる顔を伏せる。
昼休みが始まったばかりのエレベーター内はそれなりに混んでいて、郁と爽平は少し離れた場所に乗り込んだ。
「ねえ、何食べる?」
静かなエレベーター内で前に立つ女子社員が小さく隣の同僚に囁く。
「今は、中華の気分かな」
「いいね、この間デートで行ったお店、ランチが良さそうだったから、行かない?」
「へえ、彼氏、そういうのリサーチしてくれるんだ」
「うん。結構デートコース決めてくれる。学生の頃、出張ホストのバイトしてて、そういうの癖になってるって」
へえ、と驚く女子社員と同様に、郁も心の中で、へえ、と驚いていた。
そして週末の啓吾とのデートを思い出す。もう明後日に迫っているというのに、郁は何も考えていなかった。
そういえば自分はまともなデートをしたことがない。
そうしているうちにエレベーターは一階へと着き、郁も人の波に乗ってエレベーターを降りる。その隣に爽平が並んで歩き出した。
「高瀬くんは、普段どんなところに遊びに行く?」
郁はやっぱり自分は接客する立場なのだから、デートコースを決めるのは自分だろうと思い、とりあえず近くの爽平へとそんな話をふった。けれど、爽平としては突然の質問だったのだろう。え、と驚いて郁の顔を見つめた。
「どうして、そんなこと?」
「あ、いや……ちょっと参考にしようか、と……高瀬くんはモテるから、これまでたくさんデートとかしてきただろう? ちょっと聞かせて欲しくて」
爽平ほどのイケメンが連れて行くところなら、たとえ薄汚いラーメン屋でも立派なデート先になってしまうのかもしれないが、それでも自分よりはきっと経験豊富だろう。
そう思って聞いたのに、爽平の表情は怪訝なものに変わっていく。
「……なんの参考にするんですか? もしかして、店のアフターとか同伴ってヤツですか?」
なかなか的確なところを突かれ、郁が眉を下げて笑う。すると爽平の表情は更に険しくなった。
「教えません。どうして他の男とのデートの協力なんかしなきゃならないんですか。絶対嫌です。行かないって言うなら教えますけど」
「いや、それは……」
不機嫌な表情のまま歩く爽平を見上げ、郁は小さくため息を吐いた。どうやら爽平に聞くことは出来ないようだ。
「じゃあ、自分で調べるからいい」
『都内・デート』で検索でもすればそれなりに情報は出て来るだろう。それから啓吾のような大人でも楽しめそうなところをピックアップすればいい。何とかなるはずだ、と郁が結論づけ、隣を見上げると、今度は情けない表情でこちらを見ている爽平と目が合った。
「……行かないという選択肢はないんですか?」
「うん。店外デートなんだけど、もう既に料金も貰ってるんだ。約束を反故には出来ない」
そんなことをしたら、契約違反になる。店にも迷惑をかけてしまうだろう。
「いつ、ですか?」
「土曜だよ。昼から……日曜の昼まで」
「丸一日……?」
爽平の顔色が変わる。確かに風俗の仕事をしている自分が客と丸一日過ごすとなれば、体の関係も想像するだろう。爽平の気持ちはよく分かった。
「宮東さん、具体的な料金教えてください。俺、その倍の金額出しますから、行かないでください」
「そんなの無理だし、させられない。ごめん、高瀬くん……この話は忘れてくれ」
「忘れてって……」
爽平が切ない表情をこちらに向ける。郁は一瞬だけ唇を噛んで、そうだよ、とまっすぐに爽平を見つめた。
「高瀬くんはもう関わらなくていい」
「……宮東さん……」
「ところでその蕎麦屋ってどこだ? 楽しみだな」
美味いんだろ? と笑うと、爽平はようやく気持ちを切り替えたのか、大きくため息を吐いてから、はい、と頷いた。
その瞳からいつもの光が消えていることは少し胸が痛かったが、こんなことをきっかけに自分のことを嫌いになるのなら、それもいいと思う郁だった。
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