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「宮東さんとこうして並んで飲むの、初めてですね」  居酒屋の個室の、隅の席に座っていた郁の隣に腰を下ろしたのは、爽平だった。郁は渋々飲み会に参加しても、大抵は一番端の席で適当に話を合わせながら酔わないようにゆっくり飲んで一次会で帰る。そうするとプライベートなことを聞かれずに仕事の愚痴を聞くことで終わるのでとても都合がいいのだ。  けれど隣に爽平が来てしまうと話が違う。 「そう、だな……」  ――わざと遠くに座る様にしてたからな!  そんなことは言えず、郁が微笑む。爽平だけが来るのならいいのだが、女子社員も連れて来るから嫌なのだ。女性が嫌いではないのだが、とにかく苦手で、爽平を狙うハイエナのような姿には恐怖さえ感じる。 「宮東さん、サラダしか食べてないんですか? 肉、嫌いです?」  郁の目の前の取り皿を見て爽平が首を傾げる。今日は宴会のコース料理なので前菜のサラダ以外にも揚げ物や串料理も目の前に並んでいた。別に嫌いではないのだが、こういう料理はとにかくカロリーが高い。ただでさえ特殊な性癖を持っているのだからせめて相手が抱きたいと思える体を維持しようと、食べるものには気を遣っているので、なかなか手が出せないのだ。 「ああ……いや。ちょっと最近胃の調子が悪くて。少し油を控えてるんだ」  もっともらしい嘘をもっともらしい顔で言うと、爽平の表情が心配そうに歪む。 「宮東さんの愚痴ならいくらでも聞きます! ストレスですよね、きっと」 「あ、ああ……ありがとう。でも、話すほどの愚痴はないから」  こちらを真剣な目でまっすぐに見つめる爽平に郁が弱い笑顔を向ける。まさかこんなふうに心配されるなんて思っていなかった。 「高瀬くん優しいね。先輩思いなとこ、いいな」  テーブルを挟んで向かい側に座っている女子社員が爽平ににこりと微笑む。 「高瀬くんはいつも優しいよね。いつもニコニコしてるし、楽しそうに仕事してるから、こっちまで楽しくなる」  その隣に座っていた別の女子社員が頷きながら、爽平にちらりと視線を送る。 「俺、仕事楽しいんです。宮東さんに教えてもらったから」  女子社員の言葉を受け、爽平は郁を見つめ、微笑んだ。どうやら自分への視線には気づいていないらしい。普段からこんな視線は貰い慣れているのだろう。 「仕事が楽しいのはいいけど、僕の功績ではないよ」 「そんなことないです。だって俺、研修で何度も辞めようって思ったくらいだったのに」 「そうなのか?」  郁の元には研修の成果しか届いていなかったので、その成績しか見ていない。明らかに優秀だったから、余裕で業務に入っていると思っていた。 「高瀬くんの代って、ダブル課長が研修担当したんだよね?」 「元々うちの新人研修はハードだけど、輪をかけてハードだったって聞いた」  一年前に入ってて良かったって思った、と向かいの二人が頷き合う。  確かにその年は異例の出世をしている一課と三課の課長が研修をしていた。陰で『鬼教官』なんて呼ばれている二人だったから、大変だっただろうとは思う。 「まあ、確かに。でもワクワクしたんですよね。あ、その時に宮東さんの作った資料とかも見ましたよ。俺より二つ上なだけなのに、すごく分かりやすい資料作ってるって思いました」  さりげなく褒められて、郁はなんだか照れ臭くて、そんなことないよ、と呟くように答え、目の前のグラスで唇を湿らせる。 「え、ありますよ。俺、その時に宮東さんのこと知って、俺から研修担当になって貰えないか聞いたんですから」 「え?」  郁が驚いて聞き返す。けれどその声に周りの同じ声が重なっていた。 「高瀬くん、担当指名したの?」 「指名というか……この資料作った人に教えて貰えたらいいなって言ったら、そうしてくれました」  新人の指導は正直やっかいな仕事だ。通常の業務が減ることはないのに、新人の仕事の面倒もみなくてはいけない。その上、その新人の仕事ぶりで自分の評価までされてしまう。幸い爽平は驚くほど優秀だったので郁の評価が落ちることはなかったが、当時は、普段目立たないほどこういう面倒事は押し付けられるんだよな、とため息を吐いたほどだ。本人の希望なんて最強の盾があれば断られることはないと思って、上長が喜んでその通りにした経緯が手に取るように分かった。 「言われてみれば、宮東さんって資料作るの早いですよね」  向かいの女子社員の視線が爽平から自分に向くのを感じて郁は視線を手元に落とした。職場ではモブ的な存在で居たいからあまり注目はされたくないのだ。 「そうなんです。しかも教え方も優しいし的確だし、実はイケメンですよね、宮東さん」  爽平の言葉に、周りの視線が集まるのを肌で感じて郁はいたたまれずに立ち上がった。 「僕……ちょっと具合悪くなったので帰りますね」  慌てて上着とカバンを抱え、郁はその場から逃げ出すように店を出た。その後を爽平が追って来る。 「宮東さん、大丈夫ですか?」 「大丈夫、放っておいていいから」  戻って、と振り返った時だった。爽平の伸ばした手が自分の頬を掠った。その衝撃で郁の眼鏡が弾け飛ぶ。 「あ……」  薄いレンズを挟まずに見た爽平の顔は、いつもよりも男らしく見えた。一瞬、時が止まった様に互いを見つめてから、郁が地面に転がった眼鏡を拾い上げる。 「すみません……でも、あの……宮東さん、眼鏡ない方がいいですね」 「……これがないと、何も見れないんだ」  じゃあお疲れ様、と郁は眼鏡を掛け、きびすを返した。  ――見られた。眼鏡のない素顔を一番見られたくないヤツに見られてしまった。  爽平は指導担当していたせいもあって、郁のことをモブとして扱わない。それだけ顔を合わせてしまっているのだからそれは仕方ない。けれど眼鏡を外すこともないし、髪型も変えているから外で会っても分からないだろうと思っていたが、素顔を見られてしまったら、外で見つかるリスクは少し上がってしまったことになる。 「……まあ、アイツが僕のテリトリーに入るはずないか」  郁は人よりも警戒しているので、仲間が集まる店しかいかないし、会社の近くを私服で通ることもない。こちらから近づかなければ気づくはずがないか、と結論付けて郁はそのまま帰路についた。
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