864人が本棚に入れています
本棚に追加
美術館はとても静かで落ち着いていて、啓吾とゆったりと見ていると大人のデートといった空気だった。正直これまでまともなデートをしたことがなかった郁にはとても新鮮で、仕事と分かっていながらもすっかり楽しんでしまっていた。
その後、ディナーは予約していると言われ、ホテルのレストランの個室に連れて行かれた。
「雨、止みませんね」
止まないどころか、窓を叩く雨粒は次第に強くなっている。さっきは遠くで雷の音も聞こえていた。
「ミヤは雨は苦手?」
テーブルを挟んだ向かい側で啓吾が優しく聞く。郁はそれに、苦手ではないですけど、と啓吾を見やった。
「今日みたいな激しい雨は少し不安になりませんか?」
「災害レベルのものは怖いかもね。でも今日は大丈夫だよ。何があってもミヤは私が守るから」
柔らかく微笑まれ、郁はそれに小さく頷いた。そこでポケットに入れていたスマホが音を立てる。店からの着信かと思い啓吾に視線を向けると、いいよ、と言ってくれたので、郁はスマホの画面を開いた。それはメッセージの着信で、相手は店ではなく、爽平だった。
『宮東さんの家の前で待ってます』
そのメッセージに郁が思わず、え、と声にしてしまう。
「お店から? 何かあった?」
「あ、えっと……ちょっとだけ、電話して来てもいいですか?」
「構わないよ」
啓吾の言葉に、すみません、と断って郁が席を立つ。個室を出て、お手洗いの前まで来てから、郁は爽平に電話を掛けた。
『……はい』
爽平の声と共に雨と風の音がする。郁の住むマンションの共用部分は腰の高さ程度の柵があるだけで、ほとんど外のようなものだ。風向きによっては廊下が水浸しの日もある。
「僕の家の前で待つって、どういうことだ?」
『そのままです。宮東さんが帰ってくるまで待ちます』
「僕は明日の昼まで帰らないよ。待たれても困る」
『……困らせてるんです。宮東さんを誰にも触らせたくないけど、それが無理なら、せめて俺のことで頭をいっぱいにさせたい』
爽平の静かな声の奥で雨の音が響く。郁は、帰れよ、と言葉を返した。
「雨、吹き込んでるだろ? 風邪ひく前に帰ってくれ」
『ああ……確かにもうずぶ濡れですね。でも、帰りません』
はっきりとした声を聞いて、郁はぐっと唇を噛み締めた。
「そんなこと言われても僕は心配なんかしない。明日の昼までは帰らないから」
郁はそれだけ言うと電話を切ってため息を吐いた。それからスマホをポケットにしまい込み、個室へと戻る。
啓吾と目が合うと、その顔が少し心配そうに歪んだ。
最初のコメントを投稿しよう!