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「何かトラブル?」
「あ……いえ、大丈夫です」
本業の方で少し、と曖昧に誤魔化すと、啓吾が、サラリーマンなんだったね、と微笑んだ。
「おいで、ミヤ」
立ったままだった郁に啓吾が両腕を広げる。郁は言われるがまま、啓吾の傍に近づいた。すると、そのまま腰を抱きしめられる。
「君さえよければ、私の会社に転職しないか? 社長秘書として迎えたい」
「そんなことできませんよ。そういうの、公私混同って言うんじゃないですか?」
くすくすと笑うと、啓吾が顔を上げる。
「本気だよ。私の接客をしていない時は、他の男に接客をしているんだろう? あんな可愛い衣装を着て、体を触らせて……想像するだけで腹立たしいよ」
「今、僕を指名してくれるのは啓吾さんだけですよ」
「ミヤは可愛いから、いつか人気も出る。そうなる前に私はミヤを閉じ込めてしまいたいんだよ」
ぎゅっと更に強く抱きしめられる。冗談で言われていることではないと分かり、郁は気まずさから啓吾を見ることが出来なくて視線を窓へと向けた。雨は更に強くなっていた。
「少し、考えさせてください」
郁の言葉を聞いて啓吾がゆっくりと郁の体から腕を解く。
「いい返事を待ってるよ」
啓吾が微笑む。郁はそれに頷いてから席へと戻った。
「雨、益々酷くなってますけど、この後はどうしますか?」
「この後は、明日の朝までこの中で過ごすから、天気はあまり関係ないよ」
「え?」
「ベタかもしれないけどね、この後最上階のバーで飲んでから、このホテルの部屋で過ごすつもりなんだ」
啓吾の言葉に、郁は息を呑んだ。ここに連れて来られた時には、既に檻の中に招かれていた。大人だな、なんて他人事のように思う自分と、妙に焦る自分の両方が居て、上手く言葉が出ない。
「明日の昼までと聞いた時点で、ミヤだってある程度覚悟はしただろ?」
郁の表情が怯えていたのだろう。啓吾が優しくこちらを見つめる。郁は正直に頷いた。
「もちろんです。経験がないわけじゃないし……」
郁がそこまで言った時だった。窓の外が強く光り、遅れて大きな音がする。近くに雷が落ちたのだろう。ホテルの照明も一瞬途切れるように瞬いた。
こんな天気の中、爽平は外で郁を待っている。一晩こんな雨に打たれていたら体調を崩すに決まっている。爽平が勝手に待って、勝手に雨に打たれているのだ。郁には関係ない。
そう思っているけれど、どうやら自分は爽平の思惑通りになっているらしい。
「……啓吾さん、料金は全額僕が返します。だから、今日はこのまま帰らせて貰えませんか?」
「どういうこと? 私とは一晩過ごせない……私には抱かれたくないということかな?」
「違います! 僕なんかを抱いてくれるのは嬉しいです。でも、今日は……」
郁が立ち上がり、啓吾を見つめる。啓吾の目が眇められ、郁はぐっと手のひらを握った。
郁の様子に本気だということがわかったのだろう。啓吾は小さく息を吐いてから静かに口を開いた。
「……じゃあ、今日はこのまま帰す代わりに、私の恋人になって欲しい。あの店を辞めて、私だけのものになると誓うなら、帰してあげるよ」
「恋、人……?」
啓吾がゆっくりと深く頷く。静かな部屋に雨の音が響いた。遠く、雷の音も聞こえる。
「……分かりました。僕は、啓吾さんのものになります」
郁がまっすぐに啓吾を見つめはっきりと伝える。啓吾がそれに微笑んで頷いた。
「気を付けてお帰り。また近いうちに連絡するから、それまで店には出ないこと」
いいね、と有無を言わせない強い目で見つめられ、郁は頷いた。それから慌てて個室を出る。
「なんか、すごい決断をしてしまってないか……?」
現実について行けず、郁がため息を吐く。それでも今は爽平が心配で、郁は急いでホテルからタクシーに乗り込んだ。
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