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 自宅前でタクシーを降り、急いで玄関まで走ると、本当にそこに爽平が座り込んでいた。傘も広げずに膝を抱えているその姿はいつもよりもずっと小さく見えた。 「高瀬くん」  郁が声を掛けると、その体がびくりと揺れ、咄嗟にこちらを見やる。その表情はひどく安堵したものになっていた。 「……宮東さん、帰ってきて……」 「あんな電話をした後で放っておけるわけないじゃないか」  郁は玄関の鍵を開け、ドアを開けた。それから未だに座り込んだままの爽平に視線を向ける。 「……入らないの?」 「は、入ります!」  髪から雫を滴らせた爽平が慌てて立ち上がる。郁はそれに頷いて先に部屋の中へと入った。 「待ってて、タオル持ってく……」  靴を脱いで奥へと進もうとした、その時だった。爽平に手を取られ、そのまま後ろから抱きしめられる。背中が冷たいことで、爽平自身が冷えていることが分かった。一体どのくらい雨に打たれていたのだろう。 「……何もされてませんか?」 「まだ九時を過ぎたばかりだよ。食事すら途中だった」  何かをされる余裕なんかないだろう、とため息を吐くと、爽平の腕が更に強く郁を抱きしめる。 「子どもっぽいと思ってます。宮東さんの優しさにつけこんで、こんな卑怯なことをして、あなたをここへ帰してしまった……でも、俺は、今ここに宮東さんが居ることが、本当に嬉しいし、安堵してます」 「高瀬くん……」  郁がそっと爽平の腕に触れる。冷え切ったその体が小刻みに震えているのは、寒さのせいなのか、その罪悪感からなのか分からなかったが、本当に子どものようだと思った。 「とにかく、冷えてるから……まずは体を拭こうか。僕は風呂の用意をしてくるから離してくれないか」  郁が静かに言うと、爽平の腕がゆっくりと離れた。 「すみません……」  そう言って伏せた顔は、ひどく後悔にまみれた情けないものだった。  爽平を風呂に入れ、自分もその後に入ってから、郁は小さなテーブルの前で膝を抱えている爽平の目の前にカップを差し出した。 「インスタントだけど、コーヒー……とりあえず飲んで落ち着け」 「はい……あの、ホントにすみませんでした……時間経って、色々考えたら、その、仕事の邪魔をしたことになると思って」 「まあ、本来ならペナルティーものだろうな」  前金で料金を貰ってしまっているのに、途中で帰ったのだから、契約不履行ということになる。普通なら怒られるだろう。 「すみません……」 「いや、今回はお客さんから許して貰ったから、そんなことにはならないと思う」  大丈夫、と爽平の隣に腰を下ろした。その言葉にいくらか爽平も安心したようで、ほっと息を吐いた。 「店も多分辞めることになる。だからもう、こんな無茶なことはするな」  郁の言葉に爽平が、え、と驚いた顔を向ける。 「辞めて……大丈夫なんですか?」 「それを高瀬くんが言う?」  郁がくすくすと笑い出す。誰よりも先に店を辞めて欲しいと言ったのは爽平だ。 「いや、そうなんですけど……急だったから」 「色々事情があってね。だからもう心配しなくていい。こんなふうに僕に構わなくていいから」  そう言い切って郁が立ち上がる。キッチンへと向かいがてら洗面所の洗濯機を覗く。 「洗濯機の中の服が乾いたら帰るといい。雨も弱くなってるし」  まだ電車もある時間だしね、と爽平を振り返ると、その顔が情けなく歪んでいた。 「泊まっちゃダメですか……?」 「それは……職場の後輩として?」  郁がじっと爽平を見つめると、その視線が泳ぐ。けれど何かを決めたようで、ゆっくりと頷いた。 「今日はそれで……宮東さん、頼っていいって言ってくれたし」  そういえばこの間、そんなことを言ったなと思い出し、郁が頷いた。 「そういうことなら、いいよ。じゃあ、飲むか」  郁は冷蔵庫の前にしゃがみ込み、扉を開けた。中から缶ビールを取り出してから、中に入っている食材を見て、少しだけ首を捻った。 「軽いつまみなら作れそうだけど、どうする?」  郁は缶ビールを爽平に手渡しながら聞いた。それから爽平が他人の手作りは食べられないことを思い出し、ダメか、と呟く。 「あ、いや、食べます! 宮東さんが作ってくれるものなら食べられます!」 「無理しなくていいけど……」  近くにコンビニもあるし、と郁がしゃがみ込んで爽平に視線を合わせる。けれど爽平はぶんぶんと首を振った。 「無理ではなくて、その……宮東さんの作ったものなら、むしろ食べたいというか……俺に作ってくれるとか、嬉しいです」  キラキラとした目を向けられ、郁は思わずそれから視線を逸らせた。 「そんな食べたいって思うほどのものは作る気ないんだけど……」 「いいです。宮東さんが切ってくれるなら野菜の端でもきっと美味しいです」  その言葉に郁がちらりと爽平を見やる。相変わらずキラキラとした目の爽平を見てから郁はため息を吐いて立ち上がった。 「好き嫌いするなよ」  それだけ告げた郁に、はい、という爽平の元気な声が部屋に響いた。
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