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「というわけで、今一人なんだよー」  その週末、眼鏡を外し、髪型も変えた郁が行きつけのゲイバーのカウンターに大きなため息を吹きかけた。  数日前に竹とセフレを解消したことを話していた郁は思い出しただけで気分が落ち込んでいた。 「えー、いいキミー」  隣に座るこの店の常連の梅沢(うめざわ)が、くすくすと笑う。 「梅さん、何気に酷い」  郁が不機嫌な顔で梅沢を見やると、梅沢とは反対の隣から同じような笑い声が聞こえた。 「松さんまで笑わないでよ」  郁が『松さん』と呼ぶのは松江(まつえ)という。それが本名なのか梅沢に関しても分からないのだが、二人ともこの店の常連で、郁よりも少し年上だが、いい友達ではある。 「郁ちゃんはモテるんだから、すぐに次ができるでしょ」  こっちはここ数年一人なんだから、と松江が郁の頬を摘まむ。郁は唇を尖らせたまま、でもお、と口を開く。 「僕の場合、その先だからなあ」 「ぺったんこでも気にしない人もいるけど、郁ちゃんはそれを愛してくれる人がいいんだもんね」 「うん。大体、雄っぱい好きな人って、梅さんみたいな豊満なのが好きなんだよね」  郁が梅沢の胸に手を伸ばし、そのまま掴んで揉む。ガチムチでふわふわな胸を持つネコはこの界隈ではモテる。正直その体が羨ましい。 「やん、郁ちゃんのえっち。これはダーリンだけのものなの」  触っちゃダメ、と手の甲を軽く叩かれ、郁が手を戻す。梅沢には同棲までしている恋人がいるのだから、益々羨ましいという話だ。 「いいなー、ダーリンとか言ってみたいー」  カウンターチェアごとぐるぐると回って、その羨ましさを収めようとしていると、突然その椅子が止まり、驚いて郁が顔を上げた。 「だったらオレのこと、そう呼んでみない?」  椅子を止めたのは目の前の長身の男だった。茶色に染めた髪の男は遊んでいそうなイメージだった。 「僕と何したいの? ダーリン」 「そんなの一つでしょ」  本当は一晩の相手が欲しいわけではない。セフレが居ると言うと、遊んでそうと言われるが実はそんなことはなくて、いつもただ付き合ってないというだけだ。けれど、今日は落ち込んでるし、慰めて貰うのもありかなと、郁が手を差し出した。けれどその手を取ったのは目の前の男ではなく、松江だった。 「郁ちゃん、今日は僕と過ごすんだろ? 郁の好きな事いっぱいしてやる約束、忘れた?」  珍しく男っぽい声と口調の松江に訝しく思った郁だったが、こんなふうに郁が誰かに付いていくことを邪魔されたことはないので、何かあるのだろうと察した郁は、それに乗っかる様に、そうだったね、と松江に微笑んだ。 「ごめん、今日は先約あったんだった」  郁が松江の腕に自分の両腕を絡ませる。それを見ていた男が小さく舌打ちしてから、また誘うよ、と離れていった。 「……バリネコの松さん、僕の好きな事って何してくれるの?」  男が去ったことを確認してから郁が松江を見やる。すると松江は、だってえ、といつもの口調に戻った。 「アイツ、ドが付くほどのSだって、有名なんだよ? 郁ちゃんその趣味ないでしょ」 「ないけど……知らなかった」 「無理矢理連れ出すわけじゃないからトラブルにはなってないしね。でも怪我してる子、見たことあるし」  松江の言葉に、それは怖いなあ、と郁が眉を下げる。 「でも、これで今夜は誰も引っ掛けられないんだけど」  このフラストレーションをどう昇華させればいいんだよ、と松江を見ると、その目が少し泳いで、郁の向こう側の梅沢に視線が飛ぶ。 「ていうか、根本的なこと聞くけど、郁ちゃんってどうしてそういう性癖になったの?」  梅沢がこちらを見やる。その目が好奇心というよりは親身になって聞いてくれているものだったので、郁は、まあよくあるパターンだけど、と口を開いた。 「初めてのオトコが開発したんだよ。気づいたら触って貰わないとダメになってた」 「あー、分かるわー。初めてのオトコの性癖ってどうして引きずっちゃうんだろうねえ」  松江がため息を吐いて郁の頭を撫でる。それを見ていた梅沢が、そういうことね、と頷いた。 「んー……じゃあ、郁ちゃんもここで働いてみる?」  ()っぱい好きのダーリンがやってるお店なんだけど、と梅沢が自身のスマホを取り出し画面をこちらに向ける。 「雄っぱいパブ?」 「そう、メンズオンリーのね。ここなら危ない思いして相手探さなくても、触ってもらえるんじゃない? ダーリンの方針で常に店内録画してるから客も変な事出来ないし、こっちの方が安全じゃないかな。もちろん、郁ちゃんが誰の手でも構わないっていうのが前提になるけど」 「うーん……まあセックスはこっちも選びたいと思うけど、胸くらいなら。でも、感じすぎていっちゃわない? それでもいいの?」 「それこそ、客にとってはご褒美じゃない?」  郁の不安に梅沢が答える。男の胸が好きという性癖の客が来るところだ、梅沢の言う通りなのだろう。 「気持ちいいことしてもらって、しかもお金貰えて。本番なしだし」 「そっか……それはなんだか僕得な気がしてきた」  一晩だけの相手は確かに少し怖いし、どうしても挿入までさせなくてはいけない。気持ちいいならともかく、それだけではイケない郁にとってもどかしさもあるのだ。けれどそれが対価だと思っていた。それをしなくても快感だけを得られるのならこれ以上の性欲の満たし方はないだろう。 「じゃあ、ダーリンに連絡しておくから、明日にでも店に行ってみて」  梅沢が再びスマホを手元に戻し、画面に指を滑らせる。恋人に連絡してくれているのだろう。これが上手くいけば、もうセフレなんて煩わしいものは要らなくなる。もちろん恋人は欲しいけれど、それはまた別で探せばいい。  なんだか少し気持ちが軽くなったような気がして、郁は上機嫌で目の前のグラスに手を伸ばした。
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