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「失礼します。シャンパンとカンパリオレンジお持ちしました」
フロアには客席がたくさんあるが、全てソファとテーブルの組み合わせだ。その小さなテーブルの傍に膝をつき、グラスを置いていく。
「宮東さん……?」
最後のグラスをテーブルに置き終わった時響いたその声に郁が顔を上げる。そこで驚いた顔をしていたのは爽平だった。
「た、か……」
郁が口を開いたその時、フロアのライトが落ちた。音楽が派手なものに変わり、辺りがざわつき始める。
「ミヤちゃん、下がっていいよ――お兄さんはこっちね」
爽平の隣にいたキャストが郁に頷く。郁はその助け舟に掴まる様にすぐに立ち上がった。フロアを速足で駆け抜け、スタッフルームへ続くドアを開けた、その時だった。手首を掴まれ、そのまま壁に押さえ込まれる。驚きで目をつぶっていると、宮東さん、と呼ばれ、郁は躊躇いがちに目を開けた。目の前に息を上げた爽平がいる。
スタッフルームへと続く短く狭い廊下には、フロアからの音楽が響いている。
「宮東さん、ですよね……?」
「……それ、誰?」
爽平の顔から視線を外し郁がうそぶく。今ならもしかしたら、人違いという可能性も残っているかもしれない。似てる人でしたね、なんてここを去ってくれるかもしれない――そう思ったが、爽平に動く素振りはなかった。
「俺の先輩の、宮東郁さんです。俺が見間違えるはずないです」
語尾まではっきりと聞こえるそれは、確信を持っている証だ。郁はそっと顔を上げて爽平の顔を見やった。いつもの笑顔とは違う、どこか焦りの色を浮かべたその表情に、郁は何も言えなくて黙り込んだ。そんな郁を見つめたまま爽平が口を開く。
「宮東さん、どうしてこんなところに居るんですか?」
もっともな質問に郁は視線を泳がせる。
「何か……借金とかあるんですか? 誰かに脅されてるとか……」
眉を下げ、心配そうな表情でこちらを見る爽平を見て、郁は、そうか、と小さく呟いた。
――普通はそういう理由が先に来るか。
郁の場合、自分の欲望を満たしたいという理由でここに居るのだが、そうは考えにくいようだ。
「た、高瀬くんこそ、どうして、ここに? ここ、メンズオンリーの、しかも風俗だ。こんなところ、高瀬くんが興味あるとは思えない」
しかもここは会員制なので一見さんは来れない仕様になっていると聞いた。ふらっと入ってみた、という店ではない。
「大学の頃の友人と来てて……その内の一人が、ここの会員で、楽しいからって連れて来られて」
「……高瀬くん、こっち側なの?」
もうこちらの素性はバレてしまったのだ。郁は少し強気になって聞いた。ここまで知られたら怖いものはない。後は会社には黙っててもらえるように爽平の弱みも握るだけだ。
「いえ、俺は……でも、偏見はない、と思います」
「――だから、僕のことも理解できるって? 理解なんかしなくていいから、忘れて、黙ってて」
じゃあ仕事に戻るから、と郁が爽平の肩を押す。けれどそれは動かず、怪訝な顔で郁が爽平を見上げた。
「好きです。宮東さんが好きです。だから理解したいです」
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