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その日は、例の客には帰って貰ったしミヤちゃんももう上がっていいよ、と言われ帰ったのだが、土日を越えて月曜の朝、郁は憂鬱なまま鏡の前でネクタイをしめた。
「……行きたくない」
これまでこんなに出社したくない日があっただろうか。仕事で大きなミスをした次の日だって、ここまでの気持ちになったことはない。
それでも仕事に行かない理由が見つからなくて、結局郁は仕方なくいつもと同じ時間に家を出た。
いつもと同じ電車に乗り、いつもと同じ駅で降りて会社へと向かう。エントランスを抜け、オフィスのある階にたどり着くと、郁の足は竦んだ。
週末の間に自分のことが噂になっていたらどうしよう。宮東郁はゲイな上に胸を触って欲しいなんて理由で雄っぱいパブで働いていて、それなのに人気がなくて誰にも触って貰えていない――そんなことで笑われていたらと思うと、オフィスに入るのが怖かった。
――やっぱり帰ってしまおうか……
そう思ってきびすを返そうとした郁に、宮東さん、と声が掛かり、郁はびくりと肩を揺らし、振り返った。
「おはようございます」
そこには優しい笑みでこちらに向かって来る爽平がいた。郁の体が強張る。
「お、はよう……」
「宮東さん、俺今日、新商品の営業に行くんですが、資料って宮東さんが作ってましたよね? データ、もう一度送ってもらっていいですか?」
先週タブレット壊れて初期化されちゃって、と爽平が笑う。郁はそれにすぐに返事が出来ず爽平を見上げる。
「宮東さん?」
「あ、ああ……分かった。すぐ送る、から……」
郁はしばらく爽平の顔を見つめてしまってから、慌てて答えた。
「はい、お願いします」
そう言って歩き出す爽平の隣を郁も付いていく。オフィスに入るといつも通りの風景が広がっていた。何も変わらない、いつもの月曜の朝だ。
「高瀬くん……もしかして……」
爽平を見上げると、その顔が不思議そうに傾いてから、ああ、と頷いた。
「誰かに言うわけないじゃないですか。でも、それについて話したいので終業後、時間貰えますか?」
有無を言わせないその言葉に郁は頷くしかなかった。
「じゃあのちほど時間と場所を連絡したいので、連絡先貰えますか?」
「え、いや……ここで待ってるから……」
「貰えますか?」
にっこりと笑顔のまま繰り返され、郁は仕方なく自分のスマホを取り出し画面を開いた。俺がコード読み取りますね、と爽平ができぱきと連絡先を交換する。連絡先を強奪されたような気持ちのまま爽平を見上げると、その視線に気づいた彼が微笑む。
「うん……やっぱり俺、素顔の宮東さんの方が好きです」
爽平は小さく言うと、資料お願いしますね、と郁の傍を離れていった。同時に郁は大きな息を吐き、自分の席へと着く。パソコンを起動して社内メールを開いて爽平へと資料を送る。すぐにチャットで、ありがとうございます、と爽平からの返事が返って来た。その後すぐに再びメッセージが来て開くと、それは爽平からではなく、郁は首を傾げながらもそれを開いた。
『お疲れ様です。三課の山城です。二課で取り扱っている『レインボーラムネ』を取り扱えないかと問い合わせをいただきました』
そんな内容を見て郁が首を傾げる。確かに『レインボーラムネ』は郁が資料の作成をしたし、実際に何件か契約も取り付けた商品だ。きっと課長に連絡したら自分の名前を出され、仕方なくこちらに連絡をくれたのだろう。
『お疲れ様です。宮東です。資料ならすぐに送れますが、説明が必要ですか?』
資料を渡してすぐに採用して貰えるならいいが、細かい数字を決めるにあたり、こちらではどう対応しているのか聞いておきたいかもしれないと思い返事をすると、すぐに返信が来る。
『できればお時間を頂きたいです。今日だとどこか時間取れますか?』
郁はその文面にしばらく首を傾げてから、午後からなら、と返事をする。じゃあ一時で、と返って来たそれを見て郁は、そういえば、と呟いた。
「あいつと同期だったな……」
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