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良子は今日のために新しく買った喪服に袖を通した。
涙はまだ出ないが2枚のハンカチをバッグに入れる。
もうすぐ娘の亜沙香も駅に着く頃だし迎えに行ってやらねばならない。亜沙香がいなければ今日は来なかったのだから。
良子が結婚してこの町に来たのは19才の時だった。彼女が生まれ育ったのは県中央部の市で、同じ県内でもこちらに来たことはなかった。当然友達も知りあいもおらず、頼れるのは夫の浩二だけだった。
「ザッ、ザッ、ザッ」と音をたてながらアパートの階段をあがる。靴はこのつっかけしか持っていないから、音がしてしまうが仕方ない。新居は狭い二階の一番奥だ。最近普及しはじめた冷蔵庫も彼女の家にはない。木製冷蔵庫すらない。亜沙香には「え?木製?」と驚かれたが、その当時本当にあったものだ。中に氷を入れてものを冷やす。
とにかく冷蔵庫はないので、毎日食べるものをその日食べる分だけ買って帰る生活だ。八百屋に寄り、魚屋に寄る。だが、3日前に行った豆腐屋での出来事を良子はまた思い出してしまった。
いつも木綿豆腐を一丁だけ買うのだが、その日は違うものを買おうと思っていた。それでも店先でためらっていると店主と目が合った。
「ひろうすください」
何も返答がなかったので良子はもう一度買いたいものを指し示し、さっきより大きな声で言った。
「これください」
彼の答えは意外なものだった。
「そんなものはうちにない」
「……」
「これはが・ん・も・ど・き」
店主は一語一語区切るように発声した。
ものを知らない人に教えているつもりなのかもしれない。でも良子には、言葉が通じない異国の地に来てしまったような心細さだけが残った。。
今なら、ものを知らないのはそちらの方ではないかと言えるのだが。
205号室の玄関に鍵はかかっていなかった。良子が扉を開けると、そこには浩二と見知らぬ女がいた。
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